某コーヒー店のビルの屋上には、なぜかブドウがなっている。
黄緑色の実だったので、ぼくはマスカットだろうと思っていた。
ぼくはマスカットを食べようと思わない。
しかし、ここ数日の間に色が変わって、赤紫になった。
どうやらマスカットじゃないようだ。
明日、一つちぎって、店の冷蔵庫に入れようと思う。
9500時間後
焙煎室の作業用蛍光灯が切れた。この照明器具に初めて火を灯したのが2000年の7月。丸9年になる。この照明は焙煎作業中のみ点灯するので、一日平均4時間点灯したとすると、約9500時間稼動したことになる。ネットで調べたところ、この蛍光灯の定格寿命は9000時間とあるので、無事その寿命を全うしたことになる。実にめでたい。と、それだけなら、わざわざ記事にするまでもないのだが、不思議なのは、器具に取り付けられた3本の蛍光灯が、3本ともほとんど同時に寿命を迎えたことである。一ヶ月前、まず窓側の蛍光灯が事切れ、その二日後に追うように手前の蛍光灯が昇天した。そして今日、最後に残った真ん中の一本がその天寿を全うしたのだった。つまり、3本の蛍光灯は、まるで申し合わせたように三途の川を渡っていったのである。
カボチャプリンはいつもの味だった
休日の朝は目覚めるのが不必要に早い。しかも一度目が覚めると二度と眠れない。ぼくはなんとか眠る努力をしてみたが無理そうなのでベッドから起き上がり、数日前から咲き始めたアサガオの写真を撮ることにした。昨日の予報では今日は晴れとのことだったが、庭に出て仰ぎ見た空は不気味な灰色だった。雲間から日がさすのを見計らって、透きとおった赤紫の花を撮った。
車は南に向かって走り出していた。遠くに青空が見えていたが、やがてそれは灰色の雲に呑み込まれてしまった。車は海岸道路を南に下り、いつしか魚見岳を登りつめていた。わが家の屋上からは魚見岳が見える。ならば、魚見岳からもわが家が見える道理だ、というわけで、北の彼方をじっと見つめてみたが、わが家らしきものは見えなかった。魚見岳を下りて、車は山川漁港の「活お海道」に向かった。前回寄った時は、駐車場が満杯で入れなかったが、今日は空いていた。なにも買う予定はなかったが、手作りウメボシ、漬物、ドラゴンフルーツ(小さいのが2個で300yen)などを買った。
そこから一山超えるといつもの某植物園。広いロビーには綺麗な七夕飾りがしてあった。その願いが書かれた札を読んでいると、妙に切ない気分になった。
園内をぶらぶら歩いて、西洋庭園に行き、ひまわりのソフトクリームという、黄色いソフトクリームを買って食べた。300yen.
「そうか、これがひまわりの味なのか!」といった説得力には欠ける味だった。
某植物園を後にし、開聞岳麓の某ハーブ園に行ってカボチャプリンを食べた。
「そうか、これがカボチャプリンの味なのか!」という、いつもの味だった。
家に帰って、某所で買ったドラゴンフルーツを食べてみた。冷蔵庫で冷やし、二つに割ってスプーンで掬い取って口に入れると
「そうか、これがドラゴンフルーツの味・・・なの??」
という、狐につままれたような味だった。
充電完了
夏の風船屋
真夜中の室外機
菜園との日々
某珈琲店のビルの屋上は菜園になっている。ついこの間まで、連日何十本ものキュウリがなり、それを消費するのに苦労した。ぼくは毎日うんざりするほどキュウリを食べていたのである。そのキュウリも、ついに終わりの日が来た。人間に一生があるように、キュウリにも一生がある。終わりが来てみると、妙にキュウリがなつかしい。恋しい。うるさかった彼女が、いなくなってみると意外にもさびしいのと似ている。かもしれない。
キュウリが終わると次はナスだ。ナスはキュウリのように生で食べるのは難しい。ブタと味噌で炒めるのがいいかもしれない。でも、毎日それを食うわけにはいかない。たまには、カレーに入れてみようかな、などと作戦を練っているところである。
ミカンの木に、なぜかスイカがぶら下がっていた。