10年くらい休みます。せっかく来てくれたのにすみません。
なんてね。10年休んだら忘れられてしまうだろうね
エビフライは魚フライの代わりになれない。あの子が君の代わりになれないようにね。そう、エビフライと魚フライはまるで違う物なのだ。なぜなら、魚フライを食べたいときのぼくとエビフライを食べたい時のぼくは同じ人間とは思えないくらい違う。そんなことをブツブツ考えているうちに車はいつもの漁港近くの食堂に到着した。安い方のスシを食べるつもりだったが、となりのテーブルのオバさんたちが食べているエビフライがとてもうまそうだったのでそれにした
帰りに漁港近くの魚屋に寄った。この前までスーパーだったのだが、オーナーが変わり、鮮魚とツケアゲの店になったという。新鮮なサメが入ったというので、それを4匹買ってみた。今夜の夕食はフカヒレだ!というのは冗談です。このサメはすり身にしてツケアゲにするとのこと
海に続く細い道。なんだか不安な気分になる松林
定点観測的写真。ぼくはこの看板を10年以上撮り続けている。ような気がする
海。めずらしく人が多い
誕生日オメデトー、ってことで、常連客のAさんからアーティーチョークのペーストをいただいた。アーティーチョーク、前々から食べてみたいと思っていたのだけど、いつの間にかすっかり忘れてしまっていた。だから、いただいたこととは別に、思い出させてくれたことに感謝した。写真はずいぶん前、ドライブでよく行くレストランの裏の畑で見つけたもの。店のマスターに、畑のあれ、もしかしてアーティーチョーク?と聞くと、そうですよ、今度いらしたときに、お出ししましょう。と言われていたのだが、コロッと忘れてしまい、せっかくのチャンスを逃してしまった。このほかにも、食べてみたい、と思っていながら忘れてしまっているものがけっこうありそうで、なんだか悔しい
初めて知ったのだけど、今日は「哲学の日」なんだそうです。いろんな日があるもんですね。ゲーテは「私はカントを1ページ読むと、まるで明るい部屋に入った感じがするのだよ」とショーペンハウアーに語ったそうです。この「明るい部屋に入った感じ」という比喩がとてもいいですね。ぼくも同感です。哲学をすると部屋が明るくなるんです。
レヴィナスが言ってることを分かりやすく書いた本はないかと探してたら、とりあえず岩田靖夫「よく生きる」という本が見つかった。例えば、レヴィナスとは直接関係ないけど、こんなことが書いてある。
さて、私の考えでは、何のために生きているかというと、「かけがえのない人に出会うために」生きているのです。何のために生きているか。美味しいものを食べるために生きているのでもないし、お金を儲けるために生きているのでもないし、名誉を得るために生きているのでもなくて、「かけがえのない人に出会うために」生きている。それが、私の七〇年の結論。そういうかけがえのない人に出会うことによって、自分もかけがえのない人間になる。
中略
かけがえのない人に出会うということは、だから、自分のことを忘れてしまうということです。これが自分を肯定するということです。自分が消えてしまう、自分がなくなってしまう、これが自分を肯定するということです。人に尽くして、人のために何か一生懸命やって、自分のことを全部忘れてしまって、自分なんかもう頭から消えてしまった時に初めて、人間は孤独を脱出して、自分の存在が肯定されるのです。これに対して、自分を大事にして、自分には価値があるとか、自分の存在には意味があるとか、自分は素晴らしい仕事をしたとか、自分自身の肯定とはそういうことではありません。本当に自分自身が肯定されるためには、自分を忘れてしまうというところまで行かなければだめなのです。
中略
レヴィナスは、誰かが溺れているのに出くわした時に、自分が泳げるのか泳げないのかも忘れて水に飛び込むのが、善い行為というものだと言っています。自分を忘れてしまう時に、その人は本当の人間になる。だから、自分を忘れてしまうこと、それが人生の意味です。
読んでると眠くなるのです。春だから
たまには父を誘ってウナギでも食べに行こう、と思い、声をかけたが、「最近外に出るのが億劫になってなー、また今度」と、いうことだったのでコーヒーをポットに詰め、ヨッパライ某をとなりにのせて車を走らせた
いつもの店に行ってみたが、どのテーブルも人生の大先輩たちに占められ、すでに異次元の揺らぎがあちこちに表れていた。次元の境界に生じる不安定な揺らぎはぼくの繊細な神経にダメージを及ぼす。ぼくは順番待ちリストから自分の名前を消し、店を後にした
初めての店の玄関でメニューを眺めているとウエイトレスがやってきて、どうぞどうぞ、と笑顔で中に招き入れた。広い店内は誰もいなかった。ぼくは不安になった。海の見える窓際の席に座り、ぼくは焼き魚定食、ヨッパライ某はナントカという変な名前の定食を注文した。運ばれてきた焼き魚は値段の割に小さく、ぼくの不安は的中したかにみえた。しかし食べてみるとこれが予想外にうまく、値段相応以上だった