昨日、午前中にいらしたお客様からこう言われた。
「あなたには生活感がまったくないですね」
初めていらした方で、おそらくぼくより一回り上と思われる、ときおりキラリと光る目が印象的なご婦人だった。それはドミニカ田畑農園コーヒーの由来を説明している最中のことだった。移民政策に興味を持っておられ、事実、ドミニカ問題に詳しかった。要点を無駄なくストレートに話されるのだが、自然な笑顔から程よいテンポで繰り出される言葉は平明で分かりやすく、好感をもたれる話し方の見本のようであった。話の途中で分かったのだが、彼女は長い間教師をされていたとのことだった。
生活感がない、とは、たびたび言われることだし、ぼくは、どちらかといえば良い意味にとらえていた。しかし、この日、ぼくは再び同じ言葉を聞くことになった。「生活感がないですね」。やはり初めていらしたご婦人からだった。ここでぼくは不安になった。その言葉に、
「あなたには大事なものが欠けてますよ」
というニュアンスを感じ取ったからだ。
ぼくは午前中のお客様を思い出した。
「あなたには生活感がまったくないですね」
この「まったく」と強調した部分に、何かしら引っかかるものがあり、気になっていたのだった。今思えばそれは諫める含みがあった気がする。長年教師を勤めていると、相手に明らかな問題点を発見した場合、われ知らず注意を促してしまうのではないだろうか。もちろんそれは相手のためを思ってのことであり、それが人の務めと信じている…いわゆる職業的良心。もしそうだとしたら、ぼくは行動を起こさなければならないだろう。ぼくのためを思って教えてくださったのだから。
再起動
当ブログは10日前にweb上から消滅させました。
理由は、ぼくが尊敬している方(仮にAさんとしておきます)からの心のこもった忠告でした。ブログはやめなさい、と、はっきりいわれたのです。ぼくのブログの内容に問題があるというのではなく、一個人のコミュニケーション手段としてのブログには、いくつかの重大な問題が潜んでいる、というものでした。その席で、その問題についていろいろお話を伺ったのですが、結局ぼくには分からずじまいだったのです。でも、なんとなく、ぼんやりとでしたが、このまま続けるのは自分のためによくない、という気分になり、衝動的にweb上から消滅させました。いまだによく理解できてないのですが、いまの時点で理解した範囲でおおまかに書いてみます。ブログの使い道はさまざまでしょうが、ぼくは日記ブログというスタイルで不特定多数の読者を想定して発信していました。「不特定多数に発信」と、簡単に言い切りましたが、これはインターネットが普及したからこそ可能になったことで、元来、不特定多数に発信できるのは巨大な機構と組織を持つ、限られた権威だけだったのです。不特定多数の大衆に情報を流通させる社会的伝達手段、これはマスコミュニケーションの定義です。ぼくはブログを用い、マスコミュニケーションを図っていたわけです。ぼくのような一個人が、マスコミュニケーション行為を習慣化するとどうなるのでしょう。ぼくはそれを毎日欠かさず約二年間やってきました。ぼくの中で、どういう変化が起こっているのか。習慣は大きな力を持ちます。最近ぼくは、右上のカウンターの数字を気にするようになってきていました。数字が伸びるとうれしかったのです。テレビ局が視聴率を、新聞や雑誌が購読者数を気にするのと同じように。ここに、ぼくのブログのマスメディアとしての片鱗が顔をのぞかせているように思います。約十日間、ぼくは考えました。伝達内容が画一化され、間接的、一方的になるという問題はしかたないにしても、マスメディアの持つ一種の特権意識というか、傲慢さが知らず知らずに自分の中に育ってきていやしないか。一対一の人間関係においても、気づかずに傲慢な態度で臨み、コミュニケーションのディテールをおろそかにしはじめてはいないか。
Aさんは、対人関係の感性がディテールを失い、マスメディア化する危険性を危惧し、忠告されたのではないか、と自分なりに今考えているところです。まだ結論が出たわけではありませんが、十日前とは違う心持でブログに臨めると思えたので、今こうして再び書き始めました。自分の感性は自分で守らなければならないし、感性はかけがえのない、きわめて大切なものであるという認識は常にあります。ぼくはブログを書くことで自分の考えをまとめ、それを再度自分で確認し、客観的に評価するという作業に面白みを感じてます。このようなルーチンで自分との対話を行っているともいえます。そしてweb上に公開するスリルは…病み付きです。
ありがとうございました
自分でも驚いているのですが、数日前からこのブログに対する興味が薄れ始め、ついに書けなくなってしまいました。自分の内側で何かが変わってしまったようです。これまでぼくの拙い文章を読んでくださった皆様、ありがとうございました。
当ブログは数日中にweb上から消滅します。リンクしてくださった方にはご面倒をおかけしますが、解除してくださるようお願いします。
くもりガラス
1月4日は何の日か
ぼくの冬休みが終わる日である
折りしも外は雨。空は暗い灰色。ぼくのココロはblue.
くもりガラスに映ったぼくの横顔。微熱少年
だめだ
微熱少年モードで書くと、カウンターの数字は急落する
やめよう、今年は
さらば微熱少年
——- BGM Sting Fragile ——-
安いサンダルをはいても
古ーい曲なんだけど、松任谷由実の「Destiny」、知ってます?
この曲には次のようなくだりがあります。
冷たくされて いつかは みかえすつもりだった
それからどこへ行くにも 着かざってたのに
どうしてなの 今日にかぎって
安いサンダルをはいてた
冷たくした彼を見返してやろうと、いつも着飾っていたのに、彼と再び会った肝心な時には、みっともない格好をしていた、という話。
今回、彼女の作戦は失敗に終わったわけだけど、仮に彼と会った時に美しく着飾っていたとして、彼を見返すことはできたでしょうか。
某脳科学者はこう言ってるんですね。
メール・チョイスでの男性の選択基準は、服装とか髪の色ではなく、「若々しさ」と「体型」と「貞淑さ」である。
冷たくした彼をもう一度振り返らせたいのでしたら、以上の事項を参考にしてみてはいかがでしょう。余計なお世話ですが。
ぼくも思うんだけど、若々しい女性は魅力的ですよね。若いのに若々しくない女性、若くないのに若々しい女性、いますよ、歴然と。おそらく、彼女らの感性の問題なんだろうと思うのですが。
正月モード二日目
今日も朝から正月である。
が、いまいち、正月気分にならない。
理由ははっきりしている。
「春の海」を聞いていないせいなのだ。
ぼくはTVを見ないから、春の海に遭遇しないのである。
春の海を聞くためにTVを見るのは悲しい。
春の海のCDはツタヤに置いてあるだろうか。
ないであろう。
iTunesで春の海は売っているのだろうか。
売っているかもしれない。
ついでに春もほしい。しかし、春を売ると犯罪である。
いや、売っていいが、買ってはならない。
それが男の品格というものだ。
Stairway to Heaven
2007年の朝。静かだ。
車の音もしないし、犬も鳴かない。
ご近所さんたちは何してるのだろう。寝てるのかな。
とにかく静か。あ、遠くでシシ脅しの音が…カコーン。
家族は早々に出払って、だーれもいない。ぼくひとり。
そうだ、久しぶりに、大きな音で音楽でも聴こう。
ふっ、われながらいい考えすぎるぜ。
Kさんちみたいにいい音で音楽が聴けるとステキなのに。
なーんて、ブツブツいいながら
取り出したアルバム、Led Zeppelin IV
一曲目、Black dog
but、今年最初の曲がこれでいいのだろうか。
「黒犬」
なんだか不吉だね。ま、いいや。英語は苦手。
あんた
ロックをipodなんかで聴いちゃだめだぜ。
大きなスピーカーでバリバリズドンと鳴らさなきゃ。
ロックは全身で聞くのが正しい。
青島幸男が国会で決めたのだ。
ボリューム全開。出力95%!
フライホイール接続!ヤマト発進!
どどどどど
祭りだワッショイ!おどろよベイビー!
なんかヒジョーに近所迷惑。ぼくは気にしないけど。
お!
Stairway to Heaven
キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!?
しびれるー ウルウル
よーし、次のアルバムはThe Doors ダ
これも泣ける
ねーあんた、いっしょに泣こ~よ
友へ
友が言った。
海が輝いている。
背を伸ばし、ぼくは友のいう方向を見た。
ぼくの知らない海が、不思議な色に輝いていた。
ある寒い夕暮れ。風が泣いていると、友が言った。
ぼくは耳を澄ました。
風が渦まき、悲しげに叫んでいた。
いままで聞こえなかった声が、今は聞こえた。
友といると、この世界は、より高く、深く、どこまでも広い。
今年も幾人もの素晴らしい友との出会いがありました。友はぼくを変え、世界を変えてくれる。いつも感謝の気持ちにあふれることができるのは、そんな友の、惜しみない不思議な力のおかげです。心より感謝しています。いま、屋上で今年最後の夕日を浴びながら一年を振り返ってます。ありがとうございました。
大掃除
空飛ぶオッサン
ずいぶん前、ロケッティアという映画がありましたが…