午前中ヒマだったので、先日お客さんが貸してくれた本を読んだ。本を開くと、初めにこんなことが書いてある。
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みなさん、こんにちは。
「先生はえらい」というタイトルの本を書くことになりました内田樹です。この本は中学生や高校生を対象にした新書シリーズの一冊です。このシリーズの一冊を担当することが決まったとき、編集者の方に、「どんなことをいま、いちばん中学生や高校生に伝えたいですか?」と訊ねられました。コーヒーをスプーンでくるくるかき回しながらしばらく考えて、こう答えました。
「『先生はえらい』、かな」
今の若い人たちを見ていて、いちばん気の毒なのは「えらい先生」に出会っていないということだと私には思えたからです。
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「だよなー、ぼくもエライ先生に出会っていたなら、今頃こんなことはしてなかっただろうし」
思わずぼくはタメ息をついた。で、その、えらい先生って、どんな先生なんだろう。
興味津津、ぼくは読み進んでいった。その逆説的な展開にびっくりしながら読んでいくと、残りのページも少なくなってきたあたりで、こんな文に出会う。
私たちが敬意を抱くのは、「生徒に有用な知見を伝えてくれる先生」でも「生徒の人権を尊重する先生」でも「政治的に正しい意見を言う先生」でもありません。
私たちが敬意を抱くのは「謎の先生です」
な、謎の先生? えー?なんで~。
それは、この本を読めばわかることになっていますが、本の初めのほうに書いてある次の文句がそれを示唆しています。
「私たちが学ぶのは、万人向けの有用な知識や技術を習得するためではありません。自分がこの世界でただひとりのかけがえのない存在であるという事実を確認するために私たちは学ぶのです」
ぼくはこれを読んで、オスカーワイルドの「人生は芸術を模倣する」「自然は芸術を模倣する」という文句を思い出しました。自然は芸術を模倣する。一見、逆のようですが、これでいいんだと思います。芸術は自分の中にあるのですから。
それにしても、これが中、高校生向けの本だなんて。
おらータマゲタだ。
今日の仕事男
金曜日の夜は
金曜日は、あの男がやってくる。
先週の金曜日にもやって来た。
先々週の金曜日にもやって来た。
先々々週の金曜日にもやって来た。
中略
そう、彼は永遠にやってくる。ような気がする。
ぼくは彼のことを金曜日の男、と呼んでいる。
そんな風に呼ぶと、どこか翳のあるハードボイルドタッチな男を思い浮かべるかもしれないが、それは大間違いだ。ところでぼくは豆腐鍋が好きだ。豆腐鍋が好きな人間に悪者はいないという。そこで、先週彼が来たとき、豆乳鍋の材料、豆乳を注文した。そういうわけで、今夜は豆乳鍋なのであった。うまい。実にうまい。死ぬほどうまい。ような気がする。今朝しぼり立ての豆乳で作った豆乳鍋は、いわゆるひとつの高級料理店で注文すると6000円ぐらいしそうな味なのだった。ぼくは思った。やはり彼はただものではない。金曜日の男。
金曜日の男で思い出したが、当店には、仕事男、という、一見、ハードボイルド風の男も顔を出す。明日から「ねんりんピック」が始まるが、この入賞メダルをデザインしたのは彼である。彼もただものではないのかもしれない。ぼくは彼をこう呼んでいる。仕事しすぎ男。
カッコイイはずのオレ
ヒマだったので、店の外に出て、となりの庭に生えている花の写真を撮っていた。すると、遠くから若い女性が歩いて来るのが見えた。ぼくは花の写真を撮るふりをしながら、横目で彼女を見ていた。彼女は、ぼくをチラチラ見ながら通り過ぎて行った。数年前だったら、ぼくはこう思っただろう。
「ふっ、カメラを構えているオレって、そんなにカッコイイのかな」
だが、今はそうは思わない。あれは去年の夏だった。
ぼくは、となりの庭に生えている花の写真を撮っていた。すると、通りがかった近所の主婦がこう言った。
「あんた、怪しいよ」
いつの間にか、カッコイイはずのオレは、カメラを持った怪しいオジサンになってしまっていたのだ。ちなみに今は素直に怪しいオジサンを自認している。
99.9%は仮説、再び
数日前にも書いたけど、インテリジェント・デザイン、という考え方が、おもしろくて、かなりハマっている。ヒマがあれば、ネットでインテリジェント・デザイン関係の記事、意見を読んでいる。いやー、おもしろい。何がおもしろいかというと、日本のweb上では、おそらく99%以上のインテリ?が、その考えを激しく否定し、「こんなもん、非科学的で話にならんわ」と叫んでいるのです。インテリジェント・デザインを認める発言をしている人って、チョー少数派なんですね、少なくともweb上では。ところで、ネットでインテリジェント・デザイン関係の記事を検索すると、以前、このブログでも取り上げた、竹内薫(著)「99.9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方」での発言が、インテリジェント・デザイン反対派の間で槍玉に挙がっているんです。いわく、「竹内薫の作品は好きだけど、あの発言はいただけないな」みたいな。で、竹内さんがどんなことを言っているかというと、「…私の持論なのですが、この知的設計説という「大仮説」はまんざらバカにできないものだと思っています…」「…生命の起源については、まだまったくわからないことだらけなんです。だとしたら、「なんらかの知的生命体が生命の種をまいた」みたいな話は、グレーゾーンの仮説としては、ありだと思うんですよ。そしてそれは学校で教えるべきだと思うんですよね…」
なるほど。
ぼくは、この彼の発言を全然おぼえてなかったんですが、今読み直してみても、彼は真っ当なことを言っているとしか思えません。でも、今この記事を読んでいる、ほとんどの方には、かなりの違和感が生じているのかもしれない。となると、ぼくの感性は、まともじゃないってことになるのかも。そこで、二年半前に書いた、この本の感想を再び読み返してみたんですが、ここで二度ビックリ。ぼくは彼の感性に共感してるんですね、それも激しく。やっぱりなー、って感じで、なんとなくうれしい、今日の午後でした。
ところで、著者はどうして「すべては仮説」あるいは、「100%仮説」にしなかったんだろう。この著書でも言っているけど、
「科学はすべて近似にすぎない」リチャード・ファインマン なのに。
もしかすると、著者はこう言いたかったのかな?
「100%が仮説とは限らない」
ハリボテと、その影のつぶやき
この世界を疑ってみる?
「生命ってなんですか?」
ぼくは担任の先生に聞いてみた。中学1年の時の話だ。
その時の担任は理科の先生だったが、大変困った様子で、何か言いかけて口ごもり、こう答えた。
「図書館に行って、自分で調べなさい」
今思えば、そう答えるしかなかったのかもしれない。よくあることだが、簡単に見えるものほど複雑で、奥が深い。世界は不思議だ。ぼくにはさっぱり分からない。たとえば、イモムシが蝶になって飛んでいく。そんな当たり前のことが、ぼくには絶対に納得できない。でも、目の前でそれは現実に起こる。ぼくは気が狂いそうになる。そんなことでいちいち騒ぐぼくを見て、妻をはじめ、周囲の人はあきれる。でもしょうがない。この自然世界は、納得のいかないことであふれている。「あなたって、どうしてそんなに疑い深いの?疲れるでしょう」時々ぼくはそういわれる。でも、納得のいかないことをそのまま肯定したら、ぼくはぼくでなくなるような気がする。20代前半、ぼくはある人生上の問題で、聖書を読まされることになった。わが家には仏壇があったので、おそらくぼくは仏教徒なのかもしれなかったが、ぼくはそのころ、神も仏も妄想だと考え、バカにしていた。宗教なんて、心の弱い人が頼る薬のようなものなんだと。ぼくはヤレヤレと思いつつ、聖書をめくった。すると、まず、こう書いてあった。
「初めに、神が天と地を創造した」
驚いたことに、ぼくはそれを否定できなかった。変だとも思わなかった。もしそうなら、この世界は、ぼくの納得のいくものになる。数日前、このブログに時々遊びにいらっしゃるOTOさんに、進化について質問された。そのスレッドで、進化に関する本を紹介したからだと思う。ぼくは思うがままに答えたのだけど、後でちょっと気になり、一昨日から、ネット上で進化論について調べ始めた。すると、興味深いページが見つかった。それは、「インテリジェント・デザイン、最新情報」というページ。とてもおもしろい。インテリジェントデザインの存在自体は知っていたのだけど、ぼくの勝手な思い込みで、これも多数ある宗教の一派だろうと思っていた。でも、読み始めて驚いた。それが、ぼくの世界観と、ほとんど同じだったからだ。ぼくは、妻を初め、ぼくの周囲の人にずっと、進化論のおかしさを訴え続けていたが、おそらく感性が違うのと、ぼくの説明のヘタクソさのせいで、どうしてもうまく伝わらなかった。(今でもそうだけど)。まだ出合ったばかりのインテリジェント・デザインだけど、これから勉強することで、もしかすると、ぼくの世界観について、少しはましな説明ができるようになるかもしれない。そんな予感がある。当然、失望の可能性もあるけれど。そういうわけで、記念日的に、ここに書いておく次第です。
秋の夜長、この世界を疑ってみるのも一興かと思うのですが、いかがでしょう。ついでに、進化論を否定することが、何を意味するかも。