wink
冷たい雨
ぼくが見たものは
昼過ぎ、常連のSさんがやってきた。カウンターにお客様がいらしたので、Sさんは少し離れた丸テーブルの椅子に腰掛けて待っておられた。合わせた膝を少し傾け、背筋を伸ばし、遠い一点を見つめているそのたたずまいが花のように涼しげで、とても美しく感じられた。ほかのお客様が帰られた後でそのことを話すと、にっこり微笑み、「亡くなった母が喜びますわ」とおっしゃった。しつけの厳しいお母様だったらしい。愛に裏打ちされた厳しさ。なかなか難しそうだ。
アパートは無くなっていた
雨の音を聴く男たち
朝から雨が降っている。気圧が低いせいか頭がはっきりしない。時の過ぎ行くまま、ぼんやり雨の庭を眺めていると、なんとなく静かなクラシック音楽が聴きたくなってきた。ふと、自作の真空管アンプとTANNOYで室内楽を聴いているという、常連のお客さんの顔が浮かんだ。電話をしてみると運よく在宅されていた。ぼくは北に車を走らせた。小さな丘を二つ越え、川を渡り、坂を上って、場所がわからずに住宅地の路地をぐるぐる回っていると、雨の十字路に見覚えのある初老の紳士が微笑んでいた。車を停め、玄関に案内されると奥からリュートをかき鳴らす音が聞こえてくる。こんな雨の日にふさわしい、どことなく憂いを帯びた演奏。だれが弾いているのだろう、と驚いていると、それは件のTANNOYから流れていたのだった。