「素敵なおじさま」シリーズ

先月末、北海道のNさんからこんなメールをいただいた。


最近のマスターのブログの「素敵なおじさま」シリーズいいですね.
味のある面白い大人になっていきたいものです…


「素敵なおじさま」シリーズ ?
「ステキなおじさま」なんて撮ってるつもりなど微塵もなかったぼくは、メールを読んで思わずのけぞった。でも、言われてみれば、男の目にはそう映らなくても、女性の目には、あるいは彼らは「味のある魅力的な」、もっと言うなら、セクシーな男?に映るのかもしれなかった。そういえば、今はどうか知らないけれど、「枯れ専」という言葉がはやったことがあった。「枯れ専」とは「枯れた男性専門」の略。「枯れた男」とは、年を経て青臭さが取れ、涼しげで脂ぎってない、つまり経験豊富で落ち着いた魅力がある大人の男、といった感じ。そういう男性を好む女性を「枯れ専」と称していたと思う。

ワクワクさせてよ

「遊びで写真を撮ることがなくなったなぁ」と、R氏は言った。あのころは素敵な写真を毎日のようにネットで公開していたのに。
遊びを仕事にしてしまったから??

気の向くままに花や風景をカメラに収めていた、あのころのR氏

木曜日の午後

雨の天文館からやってきた墓場の鬼太郎少年。近頃カメラボディを買い替えたそうです。このサイズで4000万画素、手ブレ補正7段。でもデザインが気に入らないとのこと。ライカのようなレンジファインダー風のデザインだったら…

これはぼくが初めて買った100万画素のデジカメに付いてたメモリーカード。4MB。

たそがれのCAR BOY

西日が射す店に入ってきたバイク少年は、カウンター奥の席に直行し、柱にもたれて、しばらく目を閉じていた。妙な既視感があった。それはむかし見た映画、真夜中のカーボーイのラストシーン。フロリダ行きのバスの後部座席で窓に顔を寄せたまま息絶えるダスティンホフマン。バイク少年は愛車アルファ・ロメオで湾岸をドライブし、帰りに寄ったのだが、逃げ道のない道路で渋滞に巻き込まれ、死ぬほど疲れたのだった。コーヒーを飲んで息を吹き返したバイク少年と、いつものように車の話を始めたが、ふと少し前に読んだネットの記事を思い出し、その話をした。それはビル・ゲイツが人生後半で悟った、人生で2番目に大切な意外なこと、で、それは「遊び心を持つこと」なのだという

夕食の風景

夕食のおかずの一つがヨッパライ某の発案による、一見、揚げ出し豆腐風、ミゾレあんかけキンツバ豆腐(←ぼくが命名)であったが、どうやら思った通りにできなかったらしく、ほんとはこういう風になるはずだったのに、という長い説明を聞かされつつ食べたが、ぼく的にはこれはこれで完成度は高いと思ったのでそう伝えたけれど納得できない様子であった。説明が一段落ついたところで、今日は常連のお客さんとこんな話をしたよ、とぼくは切り出した。そのお客さんの趣味が音楽鑑賞と写真なので、話題がその辺に集中することは多いのだけど、今日は朝からバッハのマタイ受難曲を聞いていたせいもあって、いつの間にかその受難曲の話になった。お客さんは主に小編成の室内楽を真空管アンプ(300Bの)とタンノイのフロアスピーカーで聞いていらっしゃる。以前、ご自宅に招かれた時、リュートによる優雅な室内楽でぼくを迎えてくださったのは忘れられない思い出となった。器楽曲が好みと聞いていたので、マタイ受難曲を鑑賞することはあまりないだろうと思っていたのだけど、レコードは持っておられるとのこと。でも、奥様が重苦しい音楽が好きでないそうで、このレコードをかけることはほとんどないとのことだった。ちなみにこの曲の出だしは正に重苦しい。なぜなら十字架を背負ったイエスを先頭にしての刑場ゴルゴタへの行進の情景から始まるのだから。

礒山雅(著)「マタイ受難曲」によれば


深沈とした、管弦楽の前奏。17小節目から満を持したように湧き上がる、悲痛な合唱。《マタイ受難曲》といえば誰でも、このすばらしい開曲のことを想起せずにはいられないだろう。この冒頭がわれわれの《マタイ》に対するイメージを規定しているのも、理由のないことではない。なぜなら、《マタイ受難曲》の開曲は、それまでの受難曲にほとんど前例のないほど、大胆なものだからである。


という話をヨッパライ某に話したところ、意外にも興味をそそられたらしく、「それ、私も聞いたことがあるかな?」と言い出した。「たぶん、ないと思う」というと、スマホを取り出し、検索して聞こうとしたので、テレビのスイッチを入れ、Youtubeでカールリヒター指揮のマタイ受難曲を呼び出した。彼女は真剣に聞いていたが、冒頭の合唱が終わると、「もういいかな」と言ったので、ぼくはテレビを消した

月面着陸に挑戦中

JAXAの探査機が間もなく月面着陸に挑むってことで、写真に撮ってみました。大きく拡大すれば + マーク付近に写っているはずなのですが

月の下に木星がいたので、ついでにパチリ。ガリレオ衛星も写ってます。上から順に、ガニメデ、カリスト、イオ、エウロパ

消すことはできないテレビ番組

先日読んだデイヴィッド・イーグルマン (著)「あなたの知らない脳—意識は傍観者である」がおもしろかったので、同著「あなたの脳のはなし」を購入し読みはじめた。読みはじめて間もなく以下に引用した文章にさしかかり、ちょっとうろたえた。わかっていたはずなのに、こうもあっさり言われるとけっこう戸惑う


色は周囲の世界の基本的性質だと考えられている。しかし実際には外部世界に色は存在しない。電磁放射線が物体に当たると、その一部が跳ね返って、私たちの目にとらえられる。私たちは何百万という波長の組み合わせを区別できるが、そのうちどれかが色になるのは、私たちの頭の中だけのことだ。色は波長の解釈であり、内部にしか存在しない。
(中略)
あなたの頭の外の世界は、実際にどう「見える」だろう? 色がないだけでなく、音もない。空気の圧縮と膨張が耳に拾い上げられ、電気信号に変換される。そして脳がその信号を、甘美な音色、あるいはヒューヒューやガタガタやガチャガチャという音として、私たちに示す。現実にはにおいもない。わたしたちの脳の外ににおいというものはない。空気中を漂う分子が鼻の中の受容体と結合し、私たちの脳によってさまざまなにおいとして解釈される。現実世界は豊かな感覚事象にあふれてはいない。そうではなく、私たちの脳が独自の感性で世界を照らし出すのだ。


こうも率直に述べられると、なんだか途方に暮れそうになる。いったい、現実とは何なのか。まぼろしとの違いは何なのか。それに答えてこの章は終わる。以下引用


では、現実とは何なのか?あなたが見るだけで、消すことはできないテレビ番組のようなものだ。ありがたいことに、最高におもしろい番組を放送している。それはあなただけのために編集され、カスタマイズされ、映し出されているのだ。

アルタクスになるところだった

今日は休み。天気もいいし、ドライブに出かけよう、という気分だったが、数日前、階段で転んでわき腹を打ったヨッパライ某が、車が揺れると痛い、というので、ドライブはあきらめることになった

そんなわけでヨッパライ某を家に残し、車で10分くらいのところにある蝋梅屋敷にロウバイの写真を撮りに出かけた

屋敷のご主人に、今年も写真を撮らせてください、と挨拶し、広い庭をカメラを持ってブラブラ。風邪シロップみたいな甘い匂いが辺りに充満

軽快なステップで水路脇の草むらにジャーーンプ! ズブッ。昨年末、ブラックフライデーで3割引きで買ったおニューの靴がこうなった

昼食は16分茹でる太麺スパゲッティーで昭和風ナポリタン。太いせいもあってか食感が独特。好みが分かれそう

泥まみれの靴を洗って天日乾燥。どこを見ても青い空。頭は空っぽ。時間が止まってる。こういう休日も悪くない

予想通り、夕食はナベになりました