あと40ページでこの物語は終わる。「街とその不確かな壁」。ぼくはその結末をあれこれ想像しながら残り少ないページをめくる。若いころは全くそのようには思わなかったが、ある年齢に差し掛かったころから、そうか、世界はすべてイリュージョンなんだ、と思うようになった。ある時期を境に突如現れたこの手掛かりさえない不確かな世界は、それまで経験したことのない居心地の良さをぼくに提供してくれた。
写真は日曜日の午後に現れた仕事男
木星と月
フライデー
「素敵なおじさま」シリーズ
先月末、北海道のNさんからこんなメールをいただいた。
最近のマスターのブログの「素敵なおじさま」シリーズいいですね.
味のある面白い大人になっていきたいものです…
「素敵なおじさま」シリーズ ?
「ステキなおじさま」なんて撮ってるつもりなど微塵もなかったぼくは、メールを読んで思わずのけぞった。でも、言われてみれば、男の目にはそう映らなくても、女性の目には、あるいは彼らは「味のある魅力的な」、もっと言うなら、セクシーな男?に映るのかもしれなかった。そういえば、今はどうか知らないけれど、「枯れ専」という言葉がはやったことがあった。「枯れ専」とは「枯れた男性専門」の略。「枯れた男」とは、年を経て青臭さが取れ、涼しげで脂ぎってない、つまり経験豊富で落ち着いた魅力がある大人の男、といった感じ。そういう男性を好む女性を「枯れ専」と称していたと思う。
ワクワクさせてよ
木曜日の午後
二科の男
たそがれのCAR BOY
西日が射す店に入ってきたバイク少年は、カウンター奥の席に直行し、柱にもたれて、しばらく目を閉じていた。妙な既視感があった。それはむかし見た映画、真夜中のカーボーイのラストシーン。フロリダ行きのバスの後部座席で窓に顔を寄せたまま息絶えるダスティンホフマン。バイク少年は愛車アルファ・ロメオで湾岸をドライブし、帰りに寄ったのだが、逃げ道のない道路で渋滞に巻き込まれ、死ぬほど疲れたのだった。コーヒーを飲んで息を吹き返したバイク少年と、いつものように車の話を始めたが、ふと少し前に読んだネットの記事を思い出し、その話をした。それはビル・ゲイツが人生後半で悟った、人生で2番目に大切な意外なこと、で、それは「遊び心を持つこと」なのだという
Gaze of an Artist
夕食の風景
夕食のおかずの一つがヨッパライ某の発案による、一見、揚げ出し豆腐風、ミゾレあんかけキンツバ豆腐(←ぼくが命名)であったが、どうやら思った通りにできなかったらしく、ほんとはこういう風になるはずだったのに、という長い説明を聞かされつつ食べたが、ぼく的にはこれはこれで完成度は高いと思ったのでそう伝えたけれど納得できない様子であった。説明が一段落ついたところで、今日は常連のお客さんとこんな話をしたよ、とぼくは切り出した。そのお客さんの趣味が音楽鑑賞と写真なので、話題がその辺に集中することは多いのだけど、今日は朝からバッハのマタイ受難曲を聞いていたせいもあって、いつの間にかその受難曲の話になった。お客さんは主に小編成の室内楽を真空管アンプ(300Bの)とタンノイのフロアスピーカーで聞いていらっしゃる。以前、ご自宅に招かれた時、リュートによる優雅な室内楽でぼくを迎えてくださったのは忘れられない思い出となった。器楽曲が好みと聞いていたので、マタイ受難曲を鑑賞することはあまりないだろうと思っていたのだけど、レコードは持っておられるとのこと。でも、奥様が重苦しい音楽が好きでないそうで、このレコードをかけることはほとんどないとのことだった。ちなみにこの曲の出だしは正に重苦しい。なぜなら十字架を背負ったイエスを先頭にしての刑場ゴルゴタへの行進の情景から始まるのだから。
礒山雅(著)「マタイ受難曲」によれば
深沈とした、管弦楽の前奏。17小節目から満を持したように湧き上がる、悲痛な合唱。《マタイ受難曲》といえば誰でも、このすばらしい開曲のことを想起せずにはいられないだろう。この冒頭がわれわれの《マタイ》に対するイメージを規定しているのも、理由のないことではない。なぜなら、《マタイ受難曲》の開曲は、それまでの受難曲にほとんど前例のないほど、大胆なものだからである。
という話をヨッパライ某に話したところ、意外にも興味をそそられたらしく、「それ、私も聞いたことがあるかな?」と言い出した。「たぶん、ないと思う」というと、スマホを取り出し、検索して聞こうとしたので、テレビのスイッチを入れ、Youtubeでカールリヒター指揮のマタイ受難曲を呼び出した。彼女は真剣に聞いていたが、冒頭の合唱が終わると、「もういいかな」と言ったので、ぼくはテレビを消した












