Fly me to the Moon
家でゴロゴロ
バイバイ 夏
今日まで、そして明日から
SFの夏
店を閉め、車に乗り込み、家路を急いだ。夕食は何だろう、そろそろカレーかな。駐車場に車を止めて玄関に向かう。南東の空に円い月が浮かんでいるのが見えた。しかし、その月はこれまで見た月とはずいぶん違っていた。
月面調査隊が真紅の宇宙服をまとった死体を発見した。すぐさま地球の研究室で綿密な調査が行なわれた結果、驚くべき事実が明らかになった。死体は生物学的には現代人とほとんど同じにもかかわらず、5万年以上も前に死んでいたのだ。
これはジェイムズ・P・ホーガンのSF、「星を継ぐもの」の紹介文。数日前にこの本を読み終えてからというもの、月を見るたびに、あのどこかに5万年以上前に死んだ人間の死体が転がっているんじゃないか、と思うようになってしまった。
あなた、変ったわね。と君は言った
今日の内田樹の研究室の記事「受験についてのインタビュー」の中程の質問への回答が、ぼく的にウフフだったので以下に抜粋
――真の意味で「学ぶ」とはどういうことをいうのでしょうか。
内田 多くの人は、「学ぶ」というのは所有する知識や情報や技術の総量を増やすことだと思っていますが、それは違います。「学ぶ」とは自分自身を刷新してゆくことです。学んだことによって学ぶ前とは別人になることです。学ぶことによって語彙が変わり、感情の深みが変わり、表情も発声もふるまいもすべて変わることです。「コンテンツ(内容物)」が増加することではなく、「コンテナ(入れ物)」そのものの形状や性質が変わることです。
「呉下の阿蒙」という話があります。中国の三国時代の呉にいた呂蒙将軍は勇猛な武人でしたが学問がありませんでした。呉王がそれを惜しんだことに発奮して、呂蒙は学問に励みました。久しぶり会った同僚の魯粛は呂蒙の学識教養の深さに「かつての君とは別人のようだ」と驚きます。すると呂蒙は「士別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし」と応じます。学ぶ人間は三日会わないともう別人になっているので、目を見開いて見なければならない、と。
昔はこのたとえ話をよく学校の先生が語りました。学ぶとは別人になることだという考え方は1960年代くらいまではまだ生き残っていたようです。でも、今の日本の学校でこの話をする教師はまずいません。もう「学びを通じて別人になる」という考えは日本社会では共有されていないからです。人間は変わらないまま知識や情報が増え、技能や資格が身につく。そういう「学び」観が支配的です。
備えあれば憂いなし、なのです
先日、海でカキ氷を食べようと思ってドライブに出かけた。海は死ぬほど暑かったが楽しかった。やっぱり夏はサイコーだぜ、なんていいながら海辺の駐車場を出たとたん、パンクに見舞われた。路地に入って車を止め、トランクを開けて底板を持ち上げると、そこにスペアタイヤはなく、電気ポンプと牛乳みたいなのが入った容器とロケット花火があるだけだった。
ポンプの説明書を広げ、牛乳みたいなのをタイヤに注入したが、穴から牛乳と泡が吹き出て空気圧が上がらない。保険屋に電話して救援を頼んだところ、到着するのに1時間くらいかかるという。そうこうしているうちに、なぜか穴がふさがり、空気圧は2.1kgに達した。ぼくは恐る恐る車を発進させた。
車は約150km走って家に帰りついた。空気圧を測ってみたが、ちっとも減ってなかった。しかし、電気ポンプと牛乳ではなんだか不安に感じたので、熱帯雨林でパンク修理キット、というのをポチった。これはジャッキアップして車輪を取り外さなくてはならないが、確かな修理の手ごたえが得られる。
雨の水曜日
あしたは定休日なのです
ナシのむき方について
夕食後、冷蔵庫からナシを一個取り出して皮をむいた。
これまでぼくは先ず皮をきれいにむいて、それを8等分していたのだが、数日前、ヨッパライ某に、キミはどんなふうに皮をむいてるの?と聞くと、4等分してそれぞれの皮をむき、それを二つに割っている、とのことだった。そこでぼくは水洗いしたナシを先ず8等分し、それぞれの皮をむいた。それを皿に盛り、テーブルに載せてヨッパライ某に言った。
プロの目から見て、この仕上がりは100点中、何点?
ヨッパライ某はよく見もせずに「100点!」と言った。
ぼくはその点数に不満があったので言った。
ゾウが100匹空を飛んでいた、と言っても誰も信じないが、93匹飛んでいた、と言えば信じる人もいる。キミの100点はそれと同じだ。
するとヨッパライ某は言った。バカじゃないの?ゾウが飛ぶわけないじゃん