意外と

夕方、地方に住む友人から電話があった。
「この前みたいに、コーヒーを五千円分、適当に準備しておいてくれ、明日取りにくるから。意外と好評でね」
この友人自身はコーヒーを嗜まないのだが、彼の近くに住む知人がコーヒー通で、「友人がコーヒー屋をしている」と話したら俄然、興味を示し、そのコーヒーを買ってくるよう、彼に依頼したのだった。そのコーヒーが「意外」にも好評で、今回、再び注文が来たというわけ。
そう、当店のコーヒーは「意外」と好評なんですね。

遠いところ

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遠いところって、どんなところだろう。
ぼくは星の王子さまを読んで砂漠に憧れた。
月の砂漠を歩いてみたい。
でも、今は、違う。
もっと、ずっと遠いところに行きたい。
蜃気楼の向こうの、ずっとずっと先のほう。
なんでだろう。そこに何かがあるような気がするから。
なにかが、ぼくを待っているような気がする。

空き地

家の前に空き地がある。その少し先は崖だ。崖の向こうには遠く街が広がり、その背後は海。ぼくは今まで屋上でビールを飲んでいた。目の前は空き地。でも、夜だから真っ暗だ。その遠くで街の明りが瞬き、その向こうには停泊中の船の明りが見える。ぼくは空になったビールの缶を、空き地に放り投げようとした。そしてそれを思いとどまり、部屋に引き返した。ぼくはいつもこれを繰り返している。

ダークサイド

店の帰り、ブツヨク同盟の盟主、koji4432さんの家に寄った。新しいブツを見せてもらうためだ。新しいブツは、部屋の中央に鎮座していた。それは、最新鋭のハイビジョン・プロジェクター。ぼくも映画を見るのにプロジェクターを使っているが、この新しいプロジェクターは、映像の中の黒が、真っ黒に沈む。黒くあるべきところが黒い。暗い夜は、本当に暗い。それだけで、映像がずいぶん違って見える。本物が、より本物らしく見える。
ところで、ぼくとは、どういう人であろうか。ぼくが知っているぼく。人が知っているぼく。ぼくは知ってるが、人は知らないぼく。人は知っているが、ぼくは知らないぼく。そして、ぼくも、人も知らないぼく。
ぼくのあるがままの姿を、せめて、友人たちには見せておきたい。さもないと、友人たちは、本物のぼくに声をかけることができないかもしれない。そう、暗いところは暗く。

不思議の国のアリス

ずいぶんむかしのことだけど、一時期、素粒子にハマっていた。何がきっかけでそうなったのかは思い出せないが、とにかく、おもしろくて、その関係の本を買ったり、図書館に通ったりしていた。でもいつの間にかその熱も冷め、今は、素粒子関係のニュースを見ても、心が踊るようなことはなかった。ところが、ご存知リサ・ランドールという物理学者が「5次元宇宙理論」なるものを引っさげて現われて以来、ぼくは俄かに興奮しはじめた。しかもその理論が、先月稼動した(ヘリウム流出事故で運転停止中、運転再開は来年春)CERNで実験され、もしかすると実証されるかもしれないというのだ。これは、分かる人には分かる、とんでもない事件だ。
以下、彼女の著書、ワープする宇宙―5次元時空の謎を解く、の解説より引用します。
宇宙は、私たちが実感できる3次元+時間という構成ではないらしい。そこには、もうひとつの見えない次元があるというのだ。もし、もうひとつの次元が存在するのなら、なぜ私たちには見えないのか? それは、私たちの世界にどう影響しているのか? どうしたらその存在を証明できるのか? 現代物理学の歩みから最新理論まで、数式を一切使わずわかりやすく解説しながら、見えない5番めの次元の驚異的な世界に私たちを導いていく。英米の大学でテキストとして使われている話題の書Warped Passagesの邦訳。 ¥3,045(税込)←ううう
ところで、リサ・ランドールが物理学に興味を持ったきっかけは、母に買ってもらった「不思議の国のアリス」だったそうです。
去年NHKで放映された「リサ・ランドール 異次元への招待」をyoutubeで見ることができます。

冬に届く手紙

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さっき本を読んでたら、冷たい風が、窓からすーっと吹き込んできて、背中がぞくぞくした。たぶんこの風は、数日前にフィンランドの谷あいを吹いていた風。ムーミン谷のカバたちは、きっと冬の準備にいそがしいだろうな。ぼくは手紙を書くことにした。

銀杏

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これはイチョウの種である。
大地に落ちると、やがて芽を出し、立派なイチョウの木になる。
ああ、なんて自然はすばらしいのだろう。
しかし、ぼくはこれをギンナンと呼んでいる。
新聞のチラシに包み、電子レンジでチンして食べる。

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できあがり。
はぜてないのはペンチで割って食べます。

Mist

昨夜は、某F少年から借りたMistという映画を見た。なかなか面白い作品だった。どこがどうおもしろいの?と聞かれても、それをうまく答えるのは難しい。一緒にこの作品を見たヨッパライ某は、見終わって一言、「ひどい映画だったね」と苦笑いした。見終わって印象に残ったのは、世界とは各個人がそれぞれに描く幻想そのものだ、ってこと。この映画では、各々が描いているその世界に、理解し難い異世界が割り込んでくる。人々は自分の信じる世界を必死に保とうとする。つじつまを合わせようとするのだ。それに失敗すると自分が崩壊してしまう(mistはまさに人の内にあって、見えるはずのものを見えなくしてしまう)。この映画は、そんな世界同士の衝突を描いているように見える。日高敏隆という動物学者が、科学は客観を扱うが、真の客観なんて、あるのだろうか、というようなことをいっている。すべてはイリュージョンじゃないか、と。しかし、その幻想世界も、ある立場からだと客観的に眺めることが可能らしい。ぼくの勘違いでなければ、聖ヴィクトルのフーゴーの言う、「全世界を異郷と思う」ことによって。それはつまり、世界という煩悩を断ち切ることに他ならない。
次のページに聖ヴィクトルのフーゴーの「全世界を異郷と思う者」のことが書かれてました。お時間のある方はどうぞ。
異国の客