ぼくの階段

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階段の写真をよく撮る。たぶん、階段が好きなんだろう。
貝殻や石ころだったらポケットに入れて持ち帰られるけど、
階段は難しい。それで写真でがまんしているのだと思う。

lunaticな土曜日

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今日はいつもと違っていた。朝起きた瞬間から変だった。何かが確かにおかしいのに、それが何なのかわからない。ぼくがぼくじゃないような感じがする。たっぷり寝たので、睡眠不足ではない。熱いコーヒーを飲んでも、まるでテンションが上がらない。風邪はひいてないし、理由がわからない。昼過ぎにいらした常連のお客さんにその旨を伝えると、ひとこと
「満月だからじゃないの?」
びっくりした。昨夜遅く、ぼくは雲に見え隠れする満月をずっと眺めていたのだ。
ぼくは感心した。やはりうちのお客さんは変わっている。

冬の足音

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冬が近づいてきた。いやな感じだ。
まず、この時期はギックリ腰に気をつけなくてはいけない。
ギックリ腰の予防には、8の字腰振り運動が効果的だ。
しかし、これにはいささか問題がある。つまり、
感傷的な気分のときには、それをする気になれない。
わかっていただけるだろうか。

夢のまた夢

昼過ぎ、某国営放送でタルコフスキーのサクリファイスをやってたので、録画して見た。ぼく的にはツボであったが、いっしょに見てたヨッパライ某は、つまらん、と言って、すぐに席を立った。たぶん、そのつまらなさが、ぼくにはたまらなく心地良いのだと思う。ちょっと前、他人の夢の中に忍び込んでいく映画があったが、そこでは、夢の中で見ている夢に潜入する様子が描かれていた。さて、ぼくたちのいるこの世界は果たして現実だろうか。夢じゃないのか。数年前になくなった動物行動学者の日高敏隆さんは、すべてはイリュージョンである、と言い切っていた。イリュージョンなしに世界は見えないのだと。ユクスキュルの環世界を知っている方ならうなずけるはなしだ。となると、ぼくたちは、夢の中で夢を見ているようなもの、といえるかもしれない。サクリファイスは現実と幻想をあえて分けてないようにみえる。すべて現実のようで、現実の中の夢のようで、すべて夢のようである。だからそこではベッドが宙に浮いても違和感がない。幻想、幻影とぼくたちの信じている日常的現実にどれくらい違いがあるのだろう。映画の最後で、それまで声が出なかった子供がこういう。「初めにことばありき。なぜなのパパ?」つまり、作者はこう言いたかったのだと思う。われわれは幻想の中で生きている。言葉だけが現実なのだよ、と。ちなみに精神科医、斉藤環さんは「幻想の対義語は言語です」と言っている。
 私たちは影でないものなど愛せるだろうか(ヘルダーリン)

立ち止まらせるもの

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ぼくの仮想的統計によれば、約75パーセントの女性は、ほとんど無意識的にケーキのショーケースの前で立ち止まり、中を窺う。それと同じ衝動で、ぼくは崩れた崖の前や、崩れかけた石積みの前で立ち止まり、佇む。

バッジになりました

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吾輩はネコである。なまえはチェルシー。
ふつーの人間の女の子と二人で暮らしてる
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その彼女が、このたびボクのバッジを作った。
それをツイッターで披露したら、またたく間に大評判。そういうわけで、今日は、それが欲しいという某珈琲店の店主に届けに行ったらしい。だからボクは、家で一人留守番

山を歩く人たち

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登山道を歩いていると、すれ違う人に挨拶をされる。ぼくも挨拶するが、なんだか恥ずかしい。照れる。しかし、やってくる相手が明らかに初心者で、同じように照れていることがわかると、ふっ、キミたち何を照れてるんだね、というベテランみたいな態度で挨拶する。

秘せねば花なるべからず

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暗闇の中、雲の向こうで月がぼんやり光っている。輪郭を失って齢はわからない。いつもの月よりもおもしろく、いつまでも眺めていたら、すっかり体が冷えてしまった。