ナポリタンな雨の月曜日

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変な夢にうなされつつ目が覚めると時計は9時をまわっていた。9時だというのに部屋の中が夜のように暗い。そうか、今日は雨なのか。天気予報は外れると腹が立つが当たっても腹が立つ

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気がつくと昼になっていた。起きるのが遅いとすぐ昼になる。昼ごはんはサンドイッチとナポリタンだった。子供のころナポリタンは大好物だった。でも、今食べてもあの時の感動はない。なにかが変わってしまったのだ

ハイク

150123_02俳句なんて興味なかったのに、山頭火の俳句らしくない俳句を知って、急に興味がわいてきた。正岡子規が言うには俳句とは写生なんだそうだ。なるほど、それでその味わいがスナップ写真に似ているわけか。特に山頭火の俳句の一部にそれを強く感じる。それはフィルム写真とよく似た味わい。フォーカスの合わせ方も同じ手法。なんか楽しくなってきたな

水の惑星

150112_10 水、って何だろうね。子供のころから不思議でしょうがない。特別な何か。気が付いたら水のそばに来てしまっている

夢の中のぼくはぼくではなかった

変な夢を見た。いつの間にかぼくは散髪屋のイスに座っていた。ぼくの後ろで妙に存在感の薄い男がぼくの髪を切っていた。ふと鏡を見ると、ぼくの後頭部は切りすぎて大きなハゲになっていた。なんてことをしてくれたんだ!と、ぼくが怒鳴ると、存在感の薄い男は小さな声で、じゃあこうしましょう、といって指揮者のような手つきでハサミを動かした。しばらくするとぼくの頭はモヒカン刈りになっていた。だが問題はそこじゃなかった。ぼくはその髪型が気に入ってしまったのだ

迷惑な同居人

150116_01 昨夜、風呂から上がって屋上に出ると、満天の星がぼくを出迎えてくれた。時計は午前1時を回ろうとしている。家人はとっくに夢の中。家の中は静まり返って、ちょっとした音もドキッとするほど大きく聞こえる。ぼくは家人を起こさぬよう、そーっとカメラや三脚を持ち出そうとしたのだけど・・・どうやらぼくは泥棒には向かないらしい

分け入っても分け入っても青い山

なにがおもしろいか、また、楽しいか。それは「分け入ること」なんじゃないか、と、最近よく思うのです。分け入るにはきっかけがあるのですが、最近では以下に記すマルセル・デュシャンとガウディの言葉がそれでした。分け入って歩いているうちに新たなきっかけが生じ、身を転じてさらに分け入っていく。そして分け入った先はその常として瑞々しく、青々と輝いているのです。

アーティストは、時空を超えた迷宮をクリアする方法を探す媒介者のようにふるまっているように見える。アーティストを媒介者とみなすならば、彼は自らが美的次元において行っていることを自覚的に理解することはないはずである。彼の創作における全ての決断は、純粋な直観に従っているのであり、自己分析によって記述することも、念入りに考えぬかれた思考として跡づけることもできない。(マルセル・デュシャン「創造的行為」より抜粋)

創造は人間を通して絶え間なく働きかける。しかし、人間は創造しない。発見する。新しい作品の為の支えとして自然の諸法則を探究する人々は創造主と共に制作する。模倣する人々は創造主と共に製作しない。それゆえ独創とは起源に帰ることである。(ガウディ)