夕食後、ほろ酔い加減で散歩に出かけた。桜並木の遊歩道を歩いていると、若者3人が乗ったスクーターが大声で笑いながら走り抜けて行った
春だね
目覚ましが鳴る少し前だった。ギョエーーーーという、ニワトリを絞め殺すような声に驚いて目が覚めた。隣の洗面所からだ。ふっ、ついに死んだか。今年に入って週に一度くらい、洗濯機から妙な音がしていたのだ。洗濯機は2階に置いてあるので、階下で食事の準備をしているヨッパライ某には聞こえなかったようだ。朝からめんどうな話はしたくなかったし、ニワトリの事は黙ったまま仕事に出かけた。夜、夕食を囲んでいると、「洗濯機がこわれて脱水できなかった」とヨッパライ某が言った。部屋に濡れた洗濯物が干してあったのはそのせいだったのだ。ふーん、後で見てみるよ、とぼくは言った。
洗濯機を寝かせて中を見ると、思った通りベルトが伸びて緩んでいた。断末魔の叫び声はベルトがスリップする音だったのだ。軸受のベアリングが割れたのだったら新しいのを買うつもりでいたが、そちらは何ともなかった。モーターの台座を固定しているボルトを緩め、台座をずらしてベルトのテンションを回復。元通りボルトを締めて完了。それにしてもこの洗濯機、なかなかこわれない。ちなみに日立製
春になったせいか、ここのところ見る夢が新しいバージョンに更新された。数日前に見た夢は、ゴシック調の街並みの中をゴシック調の車やバイクが走っているという、今までにないタイプのものだった。そこでぼくは、バカの一つ覚えのように、ひたすら写真を撮っていた。あまり意味のない夢だ。その前に見た夢は、どこかの家を掃除機で掃除している夢だった。掃除機の調子が悪いのか、なかなかゴミが減らない。部屋の隅のごみを手で片づけていると、中から脚の長い、大きな黒い蜘蛛が出てきた。じゃまなので、そいつを外に追い出そうとするのだが、いうことを聞かない。何とか外に出すと、また中に入ってこようとする。意味がある夢のような気がして、ネットで調べたら、「物事が片付かないときに見る夢」ということだった。なんだ、そのままじゃん
お昼過ぎ、騎士団長殺し第1部を貸して下さったお客さんが、わざわざ第2部を持ってきてくださった。わーい、うれしいなーーっと! 仕事を終え、帰宅し、夕食後、さっそく読み始めました。ぼくが読み終えた第1部をヨッパライ某が読み始めたので、食堂テーブルをはさんで二人で読書
騎士団長殺し 第1部を昨夜読み終えました。とてもおもしろかったです。第2部をすぐにでも読みたいのですが、1部を貸して下さった方が読み終えるのを待たねばなりません。というわけで1部を読んだ時点での感想ですが、村上春樹の作品で繰り返し展開される、お馴染みの特異な世界観が、今回は専門的な言葉で具体的に説明されているように思いました。例えば表象、形而上、唯物的、といったやや硬めな用語が登場人物の会話の中にさらりと出てきます。さて、村上春樹は今回においても新たな物語を創造しようとしているのではなく、いつからか彼のアンテナを震わせて止まなくなった、五感でとらえにくい、それでいて人にとって何より重要な何か、を平明な物語に翻訳して示そうと腐心しているように見えます。その重要な何かの存在を彼は確信し、その信仰表明を兼ねてこれらの物語を書いているように見えるのです。
村上春樹は、あの、既成の便器を作品として発表したマルセル・デュシャンのいう「アーティスト」に自分を重ねて活動しているように思います。そのうち、既成の便器に匹敵する小説を発表して、世間のひんしゅくを大いに買うのではないかとぼくは期待しています。以下、マルセル・デュシャン「創造的行為」より抜粋。
アーティストは、時空を超えた迷宮をクリアする方法を探す媒介者のようにふるまっているように見える。アーティストを媒介者とみなすならば、彼は自らが美的次元において行っていることを自覚的に理解することはないはずである。彼の創作における全ての決断は、純粋な直観に従っているのであり、自己分析によって記述することも、念入りに考えぬかれた思考として跡づけることもできない。
また、ガウディは次のように言ったそうです。
創造は人間を通して絶え間なく働きかける。しかし、人間は創造しない。発見する。新しい作品の為の支えとして自然の諸法則を探究する人々は創造主と共に制作する。模倣する人々は創造主と共に製作しない。それゆえ独創とは起源に帰ることである。

第1部、今日半分くらい読んだんだけど、とてもおもしろいです。今のところ星5つ