
いままで屋上で月を見ていた。
気がついたら口笛を吹いていた。
井上陽水の「枕詞」
そしてふと思った。
今の子どもたちは口笛を吹けるのだろうか。
むかし、教育テレビで、こんなテーマ曲の番組があった。
口笛吹いて空き地へ行った
知らない子がやって来て
遊ばないかと笑って言った
今の子どもは、口笛を吹いて空き地に行くだろうか。
ニュートンの南瓜

店のビルの屋上は菜園になっている。先月は瑞々しいレタスが屋上一面を覆っていたが、今日、屋上に上がってみると、無駄に巨大化したパセリが菜園の大部分を占拠し、人生を謳歌していた。一方、その傍らでは、こういう場所にはふさわしくないと思える、大柄なツル性植物が四方に陣地を広げはじめていた。夕方、菜園の管理人がコーヒーを飲みに来たので、ぼくは気になったことを述べてみた。
屋上のアレ、カボチャだよね。
ああ、カボチャだ。
キュウリじゃないよね。
ああ、キュウリじゃない。
そうか、そいつは危険だな。
は?
屋上から、はみ出ていたけどね。
ほう。
はみ出たところにカボチャが生って、それが落ちたらケガ人が出る。カボチャは重いからね。
ぼくは言った。
バカバカしい。
管理人は笑った。
しかし、ぼくは心配だった。そして次のような新聞の見出しが頭に浮かんだ。
「空から降ってきたカボチャに当たり、大ケガ!」
(写真で虹のように見えるのは環天頂アークです)

黒いオブジェ
幻想の海
潮が引いた砂浜を、ぼくは子供のように水を跳ね上げながら走りまわっていた。驚いたカニたちが広がる波紋のように逃げ惑い、われ先に穴に隠れこむ。そんなカニに向けて、ぼくはカメラのシャッターを何枚も切っていた。
これ、昨夜見た夢。朝起きて「また変な夢を見てしまったなぁ」と思ってたんですが、今、不思議なことに気づきました。昨日まで、あんなにイライラしてたのに、今日は別人のように、穏やかな心持ちなのです。もしかして、あの夢のおかげかもしれないな、と思いました。ここ一ヶ月くらい、いろんな用事のせいで、ずっと海に行けず、昨日も、今日こそは行けるかな、と期待してたのに、やはり行けなかった。それで、今朝のような夢を見たのかもしれない、というわけです。ぼくは自分でつくった幻の海で遊び、とりあえず満足したのです。自分のことながら、みょうに切ないキモチになりました。ぼくの中には海で遊びたがるワガママな子どもがいるようです。そういえば、あのアントニオ・ガウディも「ぼくには時々海を見ることが必要だ」と言って、毎週日曜日、堤防に出かけ、海を見ていたそうです。
風のなか
22時30分の空
これ、なんですか?
ソーボーキン

朝、カーラジオを聞いてたら、ソーボーキンを鍛える簡単な方法、という話しがはじまった。ソーボーキンの血行が良くなると、肩こりも軽くなるのだという。というわけで、さっそくソーボーキンを鍛えることにした。ソーボーキンを鍛えるには、重いものを持ち上げればいいらしい。なーんだ、かんたんじゃん。というわけで、部屋の隅でホコリをかぶっていた鉄アレイを引きずり出し、洗剤で洗ってみた。ゴシゴシゴシゴシ。だが、いくら洗っても、鉄が金になることはない。久しぶりに持つ、鉄アレイの感触。去年は、これを持って毎日ヒンズースクワットを続け、ひざを痛めてしまったのだった。あれは失敗であった。ところで、ソーボーキンが弱ると猫背になるそうです。
静かの海
苦い記憶
大人になれば、だれだって苦い思い出の一つや二つはある。
それが大人というものだ。
大人になれば苦さに強くはなるだろう。
だが、苦さに鈍くなったらオシマイだ。
心を鎧ってはいけない。
苦いものは、いつだって苦くなくてはいけない。
だれかが言った。
やさしいだけでは生きていけない。でも、
やさしくなければ、生きている価値がない。
ぼくにも苦い思い出がある。
それは、ある暑い日の午後だった。
ぼくは喫茶店の隅の席に座り、アイスコーヒーを頼んだ。
冷たい琥珀の液が喉を伝ったとき、ぼくは目を瞠った。
その苦味は「輝ける闇」とでも呼びたくなる、高く深いものだった。
今日、その苦味を再現するべく、ぼくはアイスコーヒーを作った。
しかし、何かが足りない。
だが、完成は近い。と思う。
完成したら、
スーパーギャラクティカマグナム Z アイス。
という名前にしようかな~と思っている。






