バードマンその2

151116_08 何日か前、前から読みたいと思っていた本が図書館に入っているのを知り、それを予約した。この夏に出版されたもので、以来、図書館の蔵書検索でずっと検索し続けていたのだけど、なかなか入ってこなくて、ほとんどあきらめていたのだった。ちなみに斎藤環という精神科医の「オープンダイアローグとは何か」という本。すでに誰かが借りていて、少し待たねばならなかった。たった一冊借りるのも無駄な気がして、ついでにレイモンド・カーヴァーの作品を4冊予約した。昨日、近くの公民館に予約した本を取りに行ったのだけど、残念ながら肝心のオープンダイアローグは準備できてなかった。レイモンド・カーヴァーを読んでみたいと思ったのは、以前見た映画、バードマンの冒頭に出てきたレイモンド・カーヴァーの詩、

たとえそれでもきみはやっぱり思うのかな、この人生における望みは果たしたと?
果たしたとも。
それで、君はいったい何を望んだのだろう。
それは、自らを愛されるものと呼ぶこと、自らをこの世界にあって愛されるものと感じること。

に興味を持ったから。この「自らを愛されるものと呼ぶこと、自らをこの世界にあって愛されるものと感じること」がいかに大事なことであるかを、ぼくは最近、やっと気づいた。目からうろこが落ちる思いだった。レイチェルカーソンの言葉に「知ることは感じることの半分も重要ではない」というのがあるけれど、自らを愛されるものと呼ぶこと、自らをこの世界にあって愛されるものと感じること、は、ぼくの場合、一度死んでみないと分からないくらい難しいことだった

暖かい日

151116_06天気がよかったので南に走った151116_03 山の上にある公園151116_02 写真を撮っていたら知らないおじさんがやってきて、どこから来たの、と声をかけてきた。ぼくが子供だったら知らないおじさんには気をつけるのだけど、ちがうので言うことを聞いてあげた151116_01 おじさんは、今年の紅葉はあまりきれいではない、といって、どこかに行ってしまった151116_04ヨッパライ某に、昼食は寿司でいい?と聞くと、パスタがいい、というので、車は左に折れ、小さな山を越えた。いつもの海辺のレストランに寄ってみたが、まだ休業中だった151116_05 もうひとつのレストランでヨッパライ某はパスタを注文し、ぼくは魚のバジルソースなんとかを注文した。今日は暖かかったせいか、チョウがたくさん飛んでいた。いい気分で峠を走っていると、どこからかモンシロチョウが飛び出してきて車のどこかに当たった。明日の虫たち新聞の片隅にこういう記事が出るかもしれない。「スピード超過の車が道路を横切ろうとした峠のモンシロ君をはね、そのまま逃走」151116_07

飛ばしている二人

目の前を二人乗りのスポーツカーが走っている。通勤時、時々いっしょになる馴染みの車だ。どんな人が運転しているのかは知らない。でも音楽の趣味は知っている。彼(彼女)は邦楽は聞かない。今日はBRIAN SETZERのダーティブギをかけながら、スポーツカーらしいきびきびしたハンドリングで目の前を走っていく。よほど大きな音で外に音楽を撒き散らしながら走っているのだろう、と思われるかもしれないが、そうではない。特に今日は雨が降っているので、どちらの車も窓を閉ざしている。聞こえてくるのはスポーツカー特有の乾いた排気音くらい。ではなぜ彼(彼女)の車の中でかかっている音楽が分かるのか。得意の超能力? ぼくは通勤時、iPodから車のラジオに電波で飛ばして講義、講談などを聞いている。でも、トランスミッターの出力が弱いためか、同じ周波数で強い電波を出している車に接近すると、そちらの電波を拾ってしまう。じゃあ、周波数を変えれば、と思われるかもしれない。でも変えない。いい趣味とは思えないが、なかなかおもしろいんでね

ヘレンケラーと水

151109_09 タルコフスキーの映画では「水」が何か重要な意味を持つもののように扱われている。彼の描く世界は霊的な力を持った水に支配されているかのように見える。あまりに慣れ親しんでいるからその非凡さに目を瞠ることはないけれど、考えれば考えるほど水というのは不思議な物体だ。水とはいったいなんなのか。深く考えると頭から煙が出そうになる

愛は花

151110_01 高校生のときだったと思う。わが家に、その当時流行していた4チャンネルのステレオ装置がやってきた。ぼくは小遣いで買った井上陽水のレコードを日夜かけては深く感動していた。ぼくが「愛は君」という名曲を大音量で鳴らしていたときのことだ。父がやってきて、そんな恥ずかしい歌をかけるのはやめてくれ、近所に聞こえるじゃないか、と言った

雨の月曜日

151109_01雨の日にここにくるのは、ここから見る雨の海の色が好きだから151109_03にょろにょろ山151109_04ハマゴウの実151109_05

151109_06冬を感じさせる空151109_07ハマゴウが少し紅葉していた151109_08峠で運転を代わり、旧道を歩いて帰った。雨が降っていたせいか、いつもより疲れた

いちばんだいじなこと

151108_01 ここは見せ物の世界
何から何までつくりもの
でも私を信じてくれたなら
すべてが本物になる
(It’s Only A Paper Moon)

ひとこと言いたいんだけど聞いてくれるかな。

私を信じてくれたなら ← ここがいちばん大事。それだけ

二人の世界

人は誰しも、客観的な世界に住んでいるのではなく、自らが意味づけをほどこした主観的な世界に住んでいます。あなたが見ている世界は、わたしが見ている世界とは違うし、およそ誰とも共有しえない世界でしょう (岸見 一郎、古賀 史健 著 嫌われる勇気 より)

愛し合う二人は、まずこのあたりから学ぶべきでしょう

フローズン

151105_01 今週は荒井由美の「ひこうき雲」を何度も聞いている。ぼくにとって音楽は薬のようなものだから、そのときのメンタルコンディションに合わせて適切な音楽を選び、処方することになる。だから繰り返し同じ曲を聞くというのは、ぼくの中の特定の箇所が微熱を発していることを意味する。かも。さて、彼女のエッセイ集、ルージュの伝言に、「ひこうき雲」を作った動機が書かれているのだけど、初めてこれを読んだとき、ひどくがっかりしたのを憶えている。ぼくが脳裏に描いていた「ひこうき雲」のイメージからあまりにかけ離れていたものだから。でも今は違う。彼女のエピソードを知った上で聞く「ひこうき雲」がとてもいい。以下、松任谷由美のエッセイ、ルージュの伝言より抜粋しますが、あるいは読まないほうがいいかもしれません。

小学校のときの同級生の男の子に、筋ジストロフィーの男の子がいたわけ。子供だからそんなむずかしい病名はわからずに、なんかリハビリみたいなことに早びきをしてよく行ってるなって感じだった。すごい金持ちのうちの子でね。親が年取ってから生まれた子だったらしい。家にプールつくったりしてたのよ。公立だから、ほんとに貧しい鼻たれ小僧もいて、みんなでそこんちに泳ぎに行ったりしてたのよ。それだけにすごいわがまま坊主でね。足が悪いわがまま坊主なのよ。私、たとえばお掃除で机を運んだりするときにね、「そういう足の悪いふりをするのはやめなさいよ」とかってその子にいっちゃうのよ。それ、優しさだと思っていうのね。ほんとはできるんでしょっていう気が、そんな単純な心理じゃなかったのかもしれないけど、あったんだと思う。そうすると親が「あの子はほんとにできないんだから、そういう傷つけるようなこと言わないでくれ」っていいに来るわけ。私、先生に呼ばれて、「どういうつもりなんだ」っていわれたことがあったんだ。その子が高校一年のときに死んだの。お葬式に呼ばれて行ったら、写真が、もう知らない写真になってるわけよ。小学校以来全然会ってなかったから。私は小学校のときの友達とかには会いたくないほうだし、私立に行っちゃってたからみんなに会うのは久しぶりだったの。そのときに期せずして小学校の同窓会みたいな感じだったんだ、そこの雰囲気が。そのとき思ったの。ああ、結局昔のことっていうのはフローズンになっちゃうんだな、と。写真とかだけが大人の顔しててさ、高校生の顔しててさ。それでそのことがけっこうインパクトがあってつくった歌が「ひこうき雲」って歌。