ぼくは好きなことばかりやっていたいし、好きなものに囲まれていたい。嫌いなものは遠ざけたい。今、ぼくのまわりで生き生きしている人を思い浮かべると、みな、好きなことをやっている。ぼくは今、写真を撮るのが好きだ。仕事中も、ヒマを見つけては首にカメラをぶら下げ、店の周りをうろうろしている。子供の頃、ぼくは虫取り網を持ってキレイな虫を追いかけまわしていたが、写真を撮る行為はそれとよく似ている。しかし、何枚撮っても、思うような写真は撮れない。やはり落胆するのだけど、ちっともめげない。満足できる写真が、そう簡単に撮れるはずがない、と思うからだ。ぼくはぼくの審美眼を信頼したいし、期待したいのだ。(ぼくって、つくづくナルシストだな)
審美眼で思い出したが、美しいものは恐いという。雑誌「風の旅人」の編集長が、「美しいものは、恐い。それは、自分自身の内実を何らかの形で変容させる力があるからなのだ」と、ブログで述べていた。ドストエフスキーも「美」については別のスタンスから「恐い」といっていた。よーな気がする。動物は火を恐れるが、人は自ら火に近づき己を焦がす。美の恐ろしさ。そこにぼくは強く惹かれる。わくわくする。ぼくはぼくの信頼の置けるスコップを手にし、地面に穴を掘るように「美」を追及したい。
“量は質に転化するか” への8件の返信
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そんなに私って恐い?うふ♪
うう…
そんな恐いことをアッケラカンと書くアナタがコワイ。
「表現」というのは表へ現すということですよね。ex-pressionも外へ押し出すということですから、中身があることを前提にしているということですね。どういう中身なんでしょう。表現するほどの中身がない私としては、外界をぼんやりと眺めているのが関の山です。
それとも、自分のつまらない中身でも、ただ外界をぼんやり眺めているだけで、奇跡のように外界と切り結んでなにかの形を取るある瞬間があるんでしょうか。昔から西洋ではそういうのを「吹き込まれるもの」in-spirationと言って、天から降ってくるようなもののことのようで、詩人や芸術家の専売とされていましたね。
しかしそういう奇跡は決して起こらないのだ、対象に意識的に向き合わない限り、外界と切り結ぶ瞬間は永遠に訪れないのだとも思われます。どうやらこちらの方が近代的な考え方のようです。
そうなると私のようにぼんやりと外界を眺めているだけの者は、「美」にしろ「醜」にしろ、高度の感覚とは永遠に廻り逢えないのかもしれません。
でもあまり対象ばかり見詰めていると全体の状況はおろか自分さえもよく見えなくなる恐れもあります。「離見の見」という言葉の本来の含蓄を味わいたいと思います。
今のところ、ぼくの撮る写真は現実のコピーに過ぎないわけですが、もしその過程で、現実の、より直接的なvisionを画面に表象できたなら、それを美の表現と呼んで良いのではないかと考えています。肝心の、「現実の、より直接的なvision」を感知する能力は、遍く人に備わっているというか・・・、それに接したとき人は本来の姿を呼び覚まされ(宇宙と同一化する、とでもいいましょうか)、感動し、畏怖の念をおぼえるのではないか、という気がします。うまく言えませんが、美は宇宙の真の姿であり、頭で分かろうとすると消えるのだと思います。意識下に収納できない。なぜなら、分かるとは分けることだからです。もしかすると、離見の見という言葉も、外界との壁(自我)に固執するな、つまり、分けるな、ということではないだろうか、と思いました。
うまく表現できてない、分かりにくい文ですみません(笑)
P.S.
おもしろいテーマなので、また書きます(笑)
問題は、ぼくの写真技術が目の前の現実をうまくコピーできないところなのですが、今は、そのもどかしさにおもしろみを感じているところなのだと思います。それにしても、何事も、やってみないとわからないものですね。ぼくは写真の深さに、やっと今気づいたところです。写真は、とても不思議です。その可能性が、ぼくをわくわくさせます。写真を撮る行為は、世界を変えてしまうのです。画家は、絵を残すために絵を描くのではない、ということを最近感じてます。もしかすると、内実を表現するためでもない。絵を描く行為自体に何かがあって、生を高度に全うするための選択が芸術なのではないかという気がしているのです。そろそろ家に帰ります。帰って、また書くかもしれません。なお、酒に酔ったような文章ですが、まだ飲んでません(笑)
というわけで、臆面もなくaquilaさんのコメントに対してのマトハズレなコメントは続く…
今ふと思ったんですが…
今ここでコメントの応酬が続いているわけじゃないけれど、ブログ本来の有用な利用法って、ひとつのテーマについて意見を述べ合い、知恵を集めることなんでしょうね。人のコメントを読んで、自分一人では気づきようのないことに気づくだけでも、そうとうな収穫だと思います。
本題に戻して。
「量は質に転化するか」
私は否。だと思います。
何故か。質とゆうものはクオリティー。
量はその物質の単なる重さ。重量。
比べようがありません(-"-)
その前に論題の量と質を転化させる
という意味がよくわかっていない私です。
比べようのないものを比べる。無理です。
無理をすると・・・なんとやら。
腰痛になります(笑
そうですね、これは熱力学の法則とよく似た考えだと思います。
>無理をすると・・・腰痛になる。
そう、まさしくこれです。
つまり、無理という、方向を見失ったエネルギーが腰痛に転化したわけです。