レプリカントの憂鬱

遠藤周作の「沈黙」がアメリカのスコセッシ監督によって映画化されたそうだ。近々公開されるということで、関係する記事がネットにあふれている。たまたま読んだ記事に、スコセッシ監督の「沈黙」に寄せる思いが述べられていて感慨深かった。

「わたしはこの年になっても、信仰や疑い、弱さや人間のありようについて考え、疑問を感じているが、これらは遠藤の本がとても直接的に触れているテーマだ」

スコセッシ監督の疑問は素朴で深い。「人間とは何か」。おそらく、その答えは人間には見いだせない。しかしヒントはある。人間の弱さ。その弱さ、卑小さに自ら気づくことで何かが見えてくる、とぼくは思う。以下、ロマンロラン著「トルストイの生涯」から抜粋します。

… 十五年以上も前に彼は痛ましいほどの苦しみを述べた一ページの中で次ぎの疑問を発している。「それならレフ・トルストイよ、お前は自分の説く主義どおりに生活しているか」
彼は萎れきってそれに答えている。
「私はたまらなく恥ずかしいのです。私には罪があります。軽べつに価します。けれども私の昔の生活と今の生活とを比べてみてください。あなたは私が神の法則に従って生活しようと努めていることはお分かりでしょう。私はすべきことの千分の一もしませんでした。それを考えると恥ずかしくてなりませんが、しかし私はそれをしたくなかったからしなかったのではなく、しようと思ってもできなかったからしなかったのです。私を責めてください。しかし私のたどっている道を責めないでください。私が自分の家へ行く道を知っていて、その道をまるで酔っ払いのようによろよろ歩いていたとしたら、その道が悪いということになるでしょうか…」

トルストイは「私はそれをしたくなかったからしなかったのではなく、しようと思ってもできなかったからしなかったのです。」と言っています。ロマンロランは自分の弱さに言及するトルストイを「彼は萎れきってそれに答えている」と見ますが、トルストイはここですべての人間が持つ弱さを代弁し、そこにこそ希望の端緒を見いだせることを暗に示そうとしていると読めます。萎れきって見える口ぶりは芝居でしょう。
スコセッシ監督の言葉に触れて、思いがけず自分の人生を顧みる機会を得ました。映画「沈黙」を見に行くかどうかはまだ決めてませんが(笑)
正しいと思うことをしようとしてもできず、人を愛したいと思っても愛せない。ぼくはなんてみじめな人間なんだろう。そんな時、ぼくは海辺を歩いています。星空を眺めています。海や星空を眺め、その苦しい思いから解放されるのをじっと待ちます。海に行きたくなる時、ぼくの悩みは膨らんでいますが、でも、もしぼくが海に行かなくなったり、星空を眺めようと思わなくなったとしたら、それは何より悲しいことです。ドストエフスキーはこう言ったそうです。
「わたしが恐れるのはただひとつ。わたしがわたしの苦悩に値しない人間になることだ」