村上龍のある短編の主人公は虫歯の穴に詰まった食べもののカスを舌の先で探っていると夢見心地になり、まるで麻薬をやった時のようにトリップし、知らない町や過去をさまよう。この短編を読んだのは30年以上前だが、その頃ぼくはこの主人公と似たような経験をしていた。ぼくの場合、奥歯に挟まったカスを舌の先で執拗に取ろうとしているうちに現実と非現実の境があいまいになって、今ぼくはここにいるのか、夢を見ているのか、それともこれは映画なのだろうか、となり、あわてて不覚に陥った自分の座標を確かめていた。思うに村上龍も同じような現象を経験していたんじゃないかと思う。彼は薬物経験者だし、脳内にトリップしやすい回路ができあがっている気がする。この現象はいつの間にか止んだが、最近また同じような症状が現れるようになった。夏の間、風呂上りに冷水のシャワーを浴びるのだけど、その時トリップする。たとえば、子供のころのぼくが見知らぬ町を探検していて道に迷い、不安になったときの家並みが亡霊のようにぼくを取り囲んでくる。以前のように自分の座標を見失う程ではないので、その世界を客観的に眺め、楽しむ余裕がある