ツリーオブライフをみてきた

ツリーオブライフ、という映画を見てきた。テレンスマリックの作品だというので、これはぜひ映画館で見ておかねば、と思ったわけで。人気がないのか、10室ある劇場の中でも一番狭い小さな上映室があてがわれていた。実際、レイトショーのせいもあってか観客は10名に満たなかった。始まっていきなりヨブ記の一節が映し出され、語られる。見終わったあとでわかるのだけど、この一節が頭の隅になければ、作者がこの作品によって何を表現したいのか、理解しようとすればするほど分からなくなるように思われた。表現者のジレンマといえると思うけれど、鑑賞者が理解できないことがこの作品の一番大切なポイントになっている。「人間サイズの理解」が、この作品の重要なテーマになっているからだ。ヨブ記を読んだ方なら知っていると思うが、映画の冒頭で語られるヨブ記の一節のその少し前に、次のような言葉がある。神が最初にヨブに語られた言葉だ。
「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは」
神の経綸は人間には理解できない。ヨブは神の前に正しい人であったが、正しいからといって、彼に罪がないのではない。ヨブにはそれが理解できなかった。「彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と、十字架上でキリストは言われた。何をしているのか自分でわからない、それが人間の罪だ。いうまでもなく、それをあがなうためにキリストは十字架にかかった。その、人間には理解不可能な神の経綸を暗示することで人の罪を表そうとしたのが、この作品なのだと思う。ちなみに、いっしょに見に行ったヨッパライ某は途中で寝てしまいました。

“ツリーオブライフをみてきた” への4件の返信

  1. ぼくはこれを書いていて、おそらくこれを読んだ方の多くがかなりの違和感を持つだろう、と思いました。今時、神様だなんて、というわけです。ヨブ記という物語の中でヨブは最後に神と話すことができます。そして神がどのような存在であり、対する自分が何者なのかをはっきり知ることになります。神を知ることがすなわち、自分を知ることなんですね。自分を知るには一生かかる、ということわざがありますが、ぼく自身、ぼくって、いったい何者なんだ、という疑問で頭がいっぱいになることがタマーにあります。自分を知らない人生って、気持ち悪くないですか。聖書は多くの文書より成ってますが、イザヤ書という文書にこういう一節があります。
    「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ」
    わたし、とは神のことです。ヨブは、神に背負われて生きている事を確信することで、以前にも増して喜びを得たのでした。この映画は、神を知ることで自分が何者であるか知り、背負う神にその人生をゆだねよ、といっているようにみえます。人間サイズの理解が見事なまでに発展、充実を遂げた今日において、それは大変困難なことだとは思いますけど。

  2. 一緒に観に行った友が「何だか分からなかった」と。
    私は「分らなかった感想でいいよ」、「何が印象に残って何が気がかりになった、私はそんな感じで後で思い返してみるよ」と言った。
    天地創造を思わせる長き描写に惹きこまれていった。
    「生き方にはふたつある 世俗に生きるか 神に委ねるか 」
    「父さん・・・母さん・・・僕の中で ふたりが争っている これからもずっと・・・」
    豊かに恵まれた大自然
    音楽
    私には何よりもアップされた樹木が印象的でした。
    ☆映画の話とは別に、聖書で私が好きな箇所はヨブ記とコヘレトです。

  3. 奇妙に聞こえるかもしれませんが、この映画は「分らない」ということが分からないと分らないような気がします。いわゆるメタ認知ってやつでしょうか。ぼくは最後の、ショーンペンが浜辺を歩く、あの幻想的なシーンが強く印象に残ってます。あの場面を流れる時間は、まさに天上的でしたね。むかし見た、2001年宇宙の旅の最後のシーンを思い出しました。あらためて思ったのですが、時間ってなんなんでしょうね。

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