以前、このブログで紹介したノヴァーリスの詩、
すべてのみえるものは、みえないものにさわっている。
きこえるものは、きこえないものにさわっている。
感じられるものは、感じられないものにさわっている。
おそらく、考えられるものは、考えられないものにさわっているだろう。
この詩は理学博士、佐治晴夫さんの「宇宙の不思議」という本の巻末に紹介されてたもの。これはまさに、星の王子さまの中でキツネが言った「大切なものは目に見えない」と同じですね。その佐治晴夫さんがある対談本で、ぼくが数日前にブログに書いた、星の王子さまの「おれ、あんたと遊べないよ。飼いならされちゃいないんだから」に言及しているので以下に抜粋します。
「心がそれを認識したとき、実在が実在となる」という現象は、理論物理学の言葉を用いるなら、波動関数の収縮として記述されるでしょう。また、哲学的にはこうも説明できますね。例えば、傘が傘として意味を持つのは、雨から身を守ることができたとき。けれど、雨が降っていないときや、濡れても気にならないとき、傘は傘として実在しない。傘を傘として存在させるのは、ただ心のあり方なのだ。同じように、いま何時だったとしても、ただそれだけでは私にとって意味はない。けれど「二時に誰かと会う」と決めたとき、「二時」という時刻が、私にとって特別な意味を帯びてくる…。ちなみにサン・テグジュペリの『星の王子さま』は、まさにそのことをめぐる物語なんですよ。王子さまとキツネの会話を読み解いていくと、「心がその人を存在たらしめている」ということが、 重要なテーマになっていることがわかります。 物語では、砂漠に独りぼっちで降り立った王子さまが、さみしくなって、キツネに「ぼくと遊ばないかい?」といいますね。すると、キツネは「おれ、あんたと遊べないよ。apprivoiséしていないんだから」と答えます。この部分は、従来は「飼いならされちゃいないんだから」と訳されていますが、フランス語原文の「apprivoisé」には、実はもっと深い意味があるんですね。
中略
キツネは、「仲よくなる」とは、自分が相手を選び取ることによって、「あなたが私にとってかけがえのないひとになる」ことだ、と告げています。つまり、それは「あなたという存在が、私にとって実在になる」特別な状況なのだ、といいたいんです。それが「apprivoisé」という言葉に託されているんですね」
佐治晴夫さんは理学博士なので量子力学の観測問題に準えて話されてます。ぼくには飼いならす側と飼いならされる側には上下、主従関係があるように思えるので、この場面にはふさわしくない言葉のように思えて気になっていたのですが、考えているうちに、以前このブログに書いた、福岡伸一さんの本にかいてあった「キミは珍獣と暮らせるか?」という元ペットショップオーナーの本を思い出しました。以下、ぼくのブログの記事「逆説の発見」から。
福岡伸一ハカセの「生命と記憶のパラドクス」という本を読んでたら、こんな記事が目に留まった。
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最近、とても面白い本を見つけた。『キミは珍獣と暮らせるか?』(飴屋法水 文春文庫PLUS)。著者は元ペットショップオーナーで、珍しいペットを求める人に厳しくその覚悟を説いている。珍獣を、「駄獣」(つまらない。例えばミミズ)、「難獣」(飼育が難しい。例えばモグラ)、「弱獣」(すぐ死ぬ。例えばヒヨケザル)、「猛獣」(文字通り凶暴。例えばヤマネコ)、「臭獣」(クサい。例えばヤマアラシ)に分類する。内容は類まれなる生命論にもなっている。生き物に値段をつけ、自分の所有物とする。それは自然物を人工物として扱うこと。だから本来、不可能な行為、さらにいえば狂った行為であると。しかしそこからしか発掘できないものがある。それが生き物を飼うことの意味だと。生き物を飼うこと。それは見下ろされ、支配され、そしてそのことによって、私の方が支えられているという逆説の発見なのだ。
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筆者は言う。しかしそこからしか発掘できないものがある。それが生き物を飼うことの意味だと。
ぼくはこれを読んで甚く感じ入った。結婚も同じではないか、と
今読み直してみると、ぼくはここで「結婚も同じではないか」とつぶやいている。飼いならすことは同時に飼いならされることであり、両者は対等な関係なのだ。と。そこでぼくは愛すべき人に言いたい。キツネが王子さまにお願いした、あの言葉を。
「ねえ、ぼくを飼いならしてよ」