時に怪物くん

分かる人には分かる話、その3

以下、植島啓司「愛・賭け・遊び 」61 西鶴置土産より抜粋

人間にとってもっとも怖いのは「不確かなもの」だ。わけのわからない痛みとか、どこからくるかわからない攻撃とか、いっさい何も見えない暗闇とかには、なかなか耐えられない。逆に、どんなに激しい痛みでも、「あっ、ちょっと胃が痛んでいますね、飲みすぎでしょう、いまお薬を渡しますから」とか言われると、たちまちのうちに治ってしまうのである。逆に、わけさえわかってしまえばそんなに怖いものはないとも言えるだろう。

われわれの人生には、つねに不確かなものとか理不尽なものが立ちはだかっていて、それらを片づけないと前に進めないようになっている。さて、そんな場合どうすべきなのか。

まともに考えると、われわれは不確かなものに対して、つねにもっとも合理的な処方箋はなにかと考えがちである。しかし、それはあまり効果的な対処法とは言えないだろう。それでは、つねに後手に回ってしまい、相手を凌駕することはできない。いろいろと振り回された後で、ぐちゃぐちゃにされ、落ち込んで、病気になったりするのがオチである。怪物には怪物で対抗せよと言ったのはたしかニーチェだが、不確かなものに対してはこちらも不確かでいるのがもっとも好ましいやり方なのである。

“時に怪物くん” への2件の返信

  1. 少し次元のずれる言い方かもしれませんが、不確なものの最たるものは、ゴーギャンの言葉を借りれば、我々はどこから来てどこへ行くのか、我々はなぜ今ここにいるのか・・・という疑問でしょう。この疑問にとりつかれて、人間はこれまでどれほど苦しまなくともよい苦悩にとりつかれてきたことか。不確なもの、人間の理性では解決できないことは、その不条理を淡々と受け入れるのが精神にとってもっとも安らぎをもたらすものではないでしようか。

  2. こんばんは
    「不確なもの、人間の理性では解決できないことは、その不条理を淡々と受け入れるのが精神にとってもっとも安らぎをもたらすもの」という意見には大賛成です。これはいわゆる、悟りの境地、というやつですね。でもおそらくその「その不条理を淡々と受け入れる」ことは、ふつうの人間にとってかなりハードルの高い技術なのではないかと思えます。旧約聖書のヨブ記を読むと、謂れのない災難を受けて人生のどん底に転がり落ちても「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ」とヨブは語ります。しかし、そんなヨブも神の沈黙に耐えられなくなって、ついに神を非難するようになります。人は答えのない、不確かなものとか理不尽なもの、沈黙に耐えられないのかもしれないですね。でもヨブ記においては、沈黙には大きな意味があるようです

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