騎士団長殺し 第1部を昨夜読み終えました。とてもおもしろかったです。第2部をすぐにでも読みたいのですが、1部を貸して下さった方が読み終えるのを待たねばなりません。というわけで1部を読んだ時点での感想ですが、村上春樹の作品で繰り返し展開される、お馴染みの特異な世界観が、今回は専門的な言葉で具体的に説明されているように思いました。例えば表象、形而上、唯物的、といったやや硬めな用語が登場人物の会話の中にさらりと出てきます。さて、村上春樹は今回においても新たな物語を創造しようとしているのではなく、いつからか彼のアンテナを震わせて止まなくなった、五感でとらえにくい、それでいて人にとって何より重要な何か、を平明な物語に翻訳して示そうと腐心しているように見えます。その重要な何かの存在を彼は確信し、その信仰表明を兼ねてこれらの物語を書いているように見えるのです。
村上春樹は、あの、既成の便器を作品として発表したマルセル・デュシャンのいう「アーティスト」に自分を重ねて活動しているように思います。そのうち、既成の便器に匹敵する小説を発表して、世間のひんしゅくを大いに買うのではないかとぼくは期待しています。以下、マルセル・デュシャン「創造的行為」より抜粋。
アーティストは、時空を超えた迷宮をクリアする方法を探す媒介者のようにふるまっているように見える。アーティストを媒介者とみなすならば、彼は自らが美的次元において行っていることを自覚的に理解することはないはずである。彼の創作における全ての決断は、純粋な直観に従っているのであり、自己分析によって記述することも、念入りに考えぬかれた思考として跡づけることもできない。
また、ガウディは次のように言ったそうです。
創造は人間を通して絶え間なく働きかける。しかし、人間は創造しない。発見する。新しい作品の為の支えとして自然の諸法則を探究する人々は創造主と共に制作する。模倣する人々は創造主と共に製作しない。それゆえ独創とは起源に帰ることである。