ダーウィン以来

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人が頭で考えられる範囲は限られている。想像力が(想像を絶するほど)豊かな人でも、その想像する世界には必ず果てがある。と、臆面もなく、もったいぶった調子で今日のブログは始まるのだった。仕事の合間に、お客様からお借りした、スティーヴン・ジェイ・グールドの「ダーウィン以来」を読んでいる。彼の作品では「ワンダフル・ライフ(バージェス頁岩と生物進化の物語)」が特に有名だ。(←まだ読んでないけど。だれか持ってたら貸してください[E:heart04])。
「ダーウィン以来」は、そのタイトルどおり、進化論を論じた作品。軽妙な語り口で、科学が大好きな読者を十分に納得させる説得力を持って類推を展開していく。のだけど、ただ、この作品を読んでいて、どうしようもなく空しく感じられるのは、彼が進化論と創造論を対峙させた上で進化論に軍配を上げ、得意になっているところ。どうだろう、進化と天地創造は同じ俎上に載る性質のものだろうか。社会学的な問題としてなら分かるが、科学的態度で対峙させるとなると、ぼくには相当な違和感がある。ダーウィンは晩年、ミミズを熱心に観察し、知覚と環境の関係をも深く研究している。これは後のアフォーダンスという概念に相当し、とても興味深い研究だ。ぼくは誤解していたのだが、つくづく、ダーウィンはすばらしい科学者だったと思う。人が認識できる世界は閉じている。なぜなら、存在するものを認識するのではなく、認識するから存在し、人が認識できないものは存在しないからだ。当然、進化論も、人が認識し得る世界を扱っている。さて、ここで問題。世界の創造は、人が認識可能な、閉じた世界で起きる(起こされる)ことであろうか。

“ダーウィン以来” への2件の返信

  1. こんばんは こちらもOTO~「季節の風」に拝借しました
    進化論VS創造論への視点に頷きました
    宗教戦争 宗教そのものに危惧を抱くのは「他を排除する」ことですが「私は天地の造り主父である全能の神を信じます」を何故か否定出来ません(^O^)
    (恥ずかしいからスレッドが下がってからのOTO流投稿(*^_^*)(笑)

  2. 「ダーウィン以来」、これ、相当おもしろいですよ。
    どうにも説明の付かない事物を必死に言語化し、説明しようとする学者たちのスタンスが、場合によっては滑稽でもあり、物悲しくもあります。脳という限界のあるハードウェアを用いて無限を想う、そのせつない未完成ぶりがぼくには謎です。パーフェクトな存在の模倣ゆえの欠落(不安)を埋めんがための、ひたむきな試みのような。なんちゃって(笑)

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