店の駐車場の木に花が咲いていた。木の持ち主に、
「これ、何て木?」
と聞いてみたら、
「サクランボの木」
とのことだった。
くもり空
目が覚めて時計を見ると9時を少し回っていた。さっき寝たのにもう朝だ。9時間近く寝たはずなのだが、よほど疲れていたのだろう。顔を洗い、ドアのラッチを取り換える作業を始めた。ドアのラッチはある日突然壊れ、ノブを回してもドアが開かなくなる。ぼくはこれをトイレで味わった。これは悲劇である。これを未然に防ぐには定期的にラッチを取り換えるしかない。熱帯雨林に2個注文していたのが届いたので、今日は二つのドアのラッチを取り換えた。
どこかで昼食にしようということになったが、考えるのが面倒だったので、いつものように漁港近くのスシ屋に車を走らせ、ぼくは安いほうのスシ定食、ヨッパライ某はエビフライ定食を頼んだ。道中、プロコルハルムの青い影の詩とカフカの城とカズオイシグロの話をグダグダしゃべったが思った通りヨッパライ某はまるで興味がなさそうだった
帰る途中、某ホームセンターに寄って車のエンジンオイルを交換した。
ホームセンター横には走らない汽車やディーゼルカーが展示?してある
道を間違って遠回りをしてしまった。途中、古びた神社があったので寄ってみた
家の中の休日
暖かな一日
あたまの中は春なのです
愛の温泉たまご
ふたりでお鍋を
以前、店にちょくちょくきてコーヒーを飲んでいた女の子が久しぶりにやってきた。当時は学生だったが、今はOLとのこと。何か話があるそぶりだったので聞いてみると、当時、家庭教師をしていた学生から切実な相談を受け、どう答えていいかわからず悩んでいるのだという。それは「生きている意味がわからない」みたいなことらしい。なるほど。今度はぼくが悩む番だった。ぼくが同様な悩みにとらわれ、うまく脱出できた経験の持ち主であれば何かヒントになるようなことが言えるのだろうけど。
とりあえずぼくは言った。相手を食事に誘ってみてはどうだろう。一緒に何か食べながら話してみたら。
大切な相手とは一緒に時間をかけて食事をする。ぼくにとっては意味のあるひと時
薬
ふたりでお鍋を
土曜の午後、人生の午後について考える
冷たい風が吹いていた。春なのに。
お昼の弁当を食べた後、リンドバーグ夫人が書いた「海からの贈物」というエッセイを読んでたら、文中に「人生の午後」という言葉が出てきて、ふと我に返った。
心理学者、ユングの言葉に
「人生の午前の法則を、人生の午後に引きずり込む人は、心の損害という代価を支払わなければならない」
というのがあるそうです。以前、このブログに書きましたが、河合隼雄は「対話する人間」で次のように書いてます。
ユングは、「人生の後半」を非常に強調しました。人生を前半と後半とに分けて、前半の課題と後半の課題を分けて考えたらどうか、というのです。前半は、自分がこの世にしっかり生きていく、この社会の中に完全に受けいれられる、あるいは社会の中に貢献するということをやっていくのだけれども、次に非常に大事なことは、その自分は死ぬわけですから、今まで夢中に生きてきたけれども、自分はいったい何のために生きているのだろう、これからどうなるのだろう、いったいどこへ行くのか、といった問いかけに対して答える仕事が、われわれの人生の後半にあるのではないか、というのです。
そんなわけで弁当を食べた土曜の午後、ぼくは好きな音楽をかけ、熱いコーヒーを飲みながら、俺、何のために生きてんだろーな、みたいなことをぼんやり考えていたのであります。