雨が降ったり、やんだり。
今日は、ずっと家にいた。
ヨッパライ某とその母親は墓参りに出かけた。
long vacation 二日目
明け方、足がつって目が覚めた。おそらく昨日のハードな作業で普段あまり使わない筋肉を使ったせいだろう。時々頭が痛くなるのも同じ原理である。きょうはヨッパライ某の発案で、家族全員で指宿にある某喫茶店に行こう、ということになった。10年振りだ。ぼくが脱サラし、妙な仕事を始め、休日を月曜日に設定したせいで、同じく月曜を定休日とするこの喫茶店に行けなくなってしまったのだ。しかし今日は金曜日なので某店は営業している。ぼくはこの喫茶店に20年以上前から通っていた。
ぼくらはこの店のハンバーグ定食とシーフードカレーが麻薬的に好きなのだった。
店に到着し、ドアを開ける。振り向いたマスターは、一瞬、あっ、という顔をし、そして微笑んだ。
覚えてますか?というと、もちろんですよ、という返事。
ぼくは笑いながら、コイツがあの時の子供ですよ、と、娘を指差した。
あれは20年前のある晩、ぼくとヨッパライ某はこの店で食事をとり、勘定を済ませて外に出た。車に乗ろうとしていると、店のドアが勢いよく開き、マスターが血相を変えて飛び出してきた。
「忘れ物ですよ」
ぼくらはベビーキャリーに入れた幼い娘を店に忘れて帰ろうとしていたのだった。
long vacation 一日目
今日から夏休み。わーい、わーい。
指折り待ってた夏休み。わーい、わーい。
などと騒いでいたあのころが懐かしい。
もう、そーゆートシではない。
しかも、第一日目の今日は、例によって、店の大掃除。やれやれ。
掃除が終わったのが午後4時過ぎ。店を後にして、その足で墓参りに行った。
墓地はなかなかの賑わいようで、墓地らしい物悲しさに欠ける嫌いがあって、それはそれで悪くはなかった。そして、それぞれの墓に供えてあるホオズキの寂びた赤が、しみじみと日本的なムードを醸し出しているのがよかった。墓石にホースで水をかけながら掃除をしていると、お隣さんが話しかけてきた。わが墓のお隣さん。こういう近所づきあいもあるのか、と、新鮮な感動を覚えた。いずれ毎日顔を合わせることになるわけだけど。ぼくより少し若い夫婦で、現在、東京に住んでいるとのことだった。
喉が渇く夜
a long vacation
黄色い世界
お昼ごろ、いつものお客さんがカメラを手にいらっしゃった。カメラは普通のデジタル一眼レフだったが、装着されたレンズは少し前の時代の代物のようだった。さっそくお借りしてファインダーに目を当て、あちこち眺め回すと、世界がやけに黄ばんで見える。おかしいな、昨夜ナニしすぎて世界が黄色くなってしまったのか。いやまさか。おかしいのはカメラだ。ちがう、古いレンズを通すと現世界もセピアに染まってしまうのだ。
「なんだか黄色く見えるんですけど」
訝って言うと、それはレンズのせいだとおっしゃる。
「もしや放射能レンズ?」
思わず聞くと、そうですよ、とのこと。
放射能レンズとは、その光学性能を向上させるためにガラスに放射性物質を混ぜてつくったレンズのこと。ガイガーカウンターを近づけると派手に反応する。新しいうちは無色透明なのだが、年を経て黄色く変色してくる、らしい。ぼくは初めて現物を見たのだけど、ほんとに黄色かった。
人生は複雑とは限らない
まじめなぼく
ぼくの記憶によれば、父はまじめな話しをしたことがない。訓戒をたれるようなこともなかった。しかし、機嫌がいいときなど、こんなことを言っていた。
いわく
「わかっちゃいるけどやめられない」
「バカは死ななきゃなおらない」
「逃げた女房には未練はない」
「人を見たら泥棒と思え」
どれも役に立ちそうにない言葉だ。
しかし、ずいぶん昔、こんなことを言ったのを覚えている。
「まじめがいちばん」
ぼくは一瞬耳を疑ったが、それはぼくを諭そうとして言ったのではなく、ふと、なにかの拍子に自戒気味につぶやいたのだった。
「まじめがいちばん」
何の変哲もない、平凡で退屈な言葉。
しかし、ぼくはその言葉が気に入った。
ぼくは、まじめにやれよ、などと人にいう気はない。まじめにやれよ、と、人に言っても無駄だから。それは自分に言ってこそ効果がある。ぼくは自由でありたい。自由とは自分を律することだ。自分と真剣に向き合えば自ずと自由になれる。自由になるためには自分にまじめにならなければならない。というわけで、最近発見したフリーフォントを使って次のような作品を作ってみた。