夢の中のぼくはぼくではなかった

変な夢を見た。いつの間にかぼくは散髪屋のイスに座っていた。ぼくの後ろで妙に存在感の薄い男がぼくの髪を切っていた。ふと鏡を見ると、ぼくの後頭部は切りすぎて大きなハゲになっていた。なんてことをしてくれたんだ!と、ぼくが怒鳴ると、存在感の薄い男は小さな声で、じゃあこうしましょう、といって指揮者のような手つきでハサミを動かした。しばらくするとぼくの頭はモヒカン刈りになっていた。だが問題はそこじゃなかった。ぼくはその髪型が気に入ってしまったのだ

迷惑な同居人

150116_01 昨夜、風呂から上がって屋上に出ると、満天の星がぼくを出迎えてくれた。時計は午前1時を回ろうとしている。家人はとっくに夢の中。家の中は静まり返って、ちょっとした音もドキッとするほど大きく聞こえる。ぼくは家人を起こさぬよう、そーっとカメラや三脚を持ち出そうとしたのだけど・・・どうやらぼくは泥棒には向かないらしい

分け入っても分け入っても青い山

なにがおもしろいか、また、楽しいか。それは「分け入ること」なんじゃないか、と、最近よく思うのです。分け入るにはきっかけがあるのですが、最近では以下に記すマルセル・デュシャンとガウディの言葉がそれでした。分け入って歩いているうちに新たなきっかけが生じ、身を転じてさらに分け入っていく。そして分け入った先はその常として瑞々しく、青々と輝いているのです。

アーティストは、時空を超えた迷宮をクリアする方法を探す媒介者のようにふるまっているように見える。アーティストを媒介者とみなすならば、彼は自らが美的次元において行っていることを自覚的に理解することはないはずである。彼の創作における全ての決断は、純粋な直観に従っているのであり、自己分析によって記述することも、念入りに考えぬかれた思考として跡づけることもできない。(マルセル・デュシャン「創造的行為」より抜粋)

創造は人間を通して絶え間なく働きかける。しかし、人間は創造しない。発見する。新しい作品の為の支えとして自然の諸法則を探究する人々は創造主と共に制作する。模倣する人々は創造主と共に製作しない。それゆえ独創とは起源に帰ることである。(ガウディ)

わが家の味

150114_01 横浜に住んでいる娘から、しょうゆを送って、というメールが来たので送るところ。関東のしょうゆは塩辛いからね。わが家ではずっと、伊集院のさくらしょうゆです

なんとなく魚フライ

150112_05 昨夜遅くまで星を見ていたせいで、目が覚めたのは9時過ぎだった。今日はなんとかの日で全国的に休日。眠い目をこすりながら屋上に出ると、日差しは思ったより明るく、今日一日家の中でぼんやり過ごすのも良さそうな気がした。明るい部屋でぼーっとしてたら、いつの間にか12時になった。(写真は屋上から見た知林ヶ島)150112_01 ヨッパライ某が、もうお昼だよ、昼ごはんはどうするの、というので、車に乗って海に面した食堂に出かけた150112_02 なんとなく魚フライにした150112_07

ラブジョイな夜

150109_01「1月7日にエメラルドグリーンの彗星『ラブジョイ』が地球に大接近! 2月ごろまでなら観測可能か。この機会を逃すと次は8000年後!」などとネットのニュースに書いてあるもんだから、なんだか見ないと損するような気がして写真に撮ってみた。あいにく薄雲が広がっており、雲の切れ間を狙って撮影。PM2.5の影響か、はっきりしない空。多分、明日のほうがきれいに見えると思う150109_02 オリオン座の右のほうにぼんやり見えます

なんけー

150107_01正月らしい写真を撮ろうと思って撮った一枚。何年か経ってこの写真だけを見ても、何の写真か分からんよーな気がする