月曜日の朝はいつもここにいる。ような気がする
月曜日の昼はここにいることがある。と思う
ボケ防止にカレーが効くというので定期的に食べることにしているが、もう手遅れかもしれない
カレー屋さんを出て左折。ちょっと走って右折。すると閉校した小学校があってヒマワリが咲いている。寒い中に一生懸命咲いている姿を見るのは少し胸が痛む
秋はセンチメンタル。こんな日はコスモスが風に揺れるだけで泣けてくる
やっと秋らしくなってきた。暑さでスカスカになっていたアタマも少しばかり冴えてきて、何か面白そうな本があったら読もうかな、って気分。そこで池澤夏樹の「小説の羅針盤」という本を手に取った。いわく、「上田秋成、森鴎外からピンチョン、カーヴァー、山田詠美まで、ぼくが好きな作家や詩人や思想家を自分のまわりに並べてみた。希代の読み手でもある著者が、15人の作家の本質を鮮やかに軽やかに突く。読書欲を倍増させる一冊」とのこと。この本自体、軽快なエッセーで楽しめるのだが、ぼくの目的は彼の解説を手掛かりに普段目に留めないような本を読んでみよう、ってことなのだ。さっそく、キルケゴールの「死にいたる病」という、よほどのことがない限り死ぬまで読むことはなかろう、という本の解説を読んでみる。いきなりこんな出だしで始まる。
何の先入観も予備知識もないままに「死にいたる病」を読もうとする者は相当の困難を覚悟しなくてはならない。これは哲学の素人であるぼくがそれを試み、強引に読んだつもりになって書いた小文であり、それ以上ではない。ぼくはときに著者の論理をたどたどしく追い、ときには百年も後の別の哲学者を引き合いに出して、なんとかこれを理解しようと試みた。なかなかむずかしいことだった。
なるほど。しかし、後に続く彼の解説を読んでいくうちに、なんだか読んでみたくなった。というわけで、さっそく電子書籍ストアからダウンロードして読み始める。想定していたより読みにくい。すいすい読めるところもあるが、大半は何のことやらわからない。それでも1265円もした本なので簡単にはあきらめきれず、行きつ戻りつしながら前進していく。そしてぼくなりに分かったことがある。キルケゴールは限りなく重大なことを、まさに目の前の読者、ほかでもない、このぼくに伝えようとしている。しかしそれはコペルニクス的転回をはるかに上回る次元の事柄で、日本に限って言えばおそらく98%の読者には理解できない。その理由の一つがこの本が教化を目的として書かれていることにあって、98%の読者には彼の企図するところの教化によるパラダイムシフトが成功しない限り、この本は頭の体操程度にしか役に立てない
今日は三か月に一度の歯のメンテナンスの日。歯は大事だ。よくわかってる。でも病院は嫌い。というわけで今回も異常は発見されなかった。
峠のソバ屋で昼食。ぼくはここのソバが一番好きかも。山の上にある大型ショッピングセンターで一週間分の買い物を済ませ、ソフトクリームが100円だったので、そんなに食べたくなかったのに買って食べたら冷たさが歯にしみて涙が出た。
山の上野公園をぶらぶら。小雨が降っているが傘をさすほどじゃない。
イチョウ並木の下はギンナンだらけ。変なにおいを放っていたが、踏まずに歩くのは困難だった。
雨の池をしばらく眺める。吉田拓郎の歌にマークⅡというのがあって、こんなフレーズがある。
「年老いた男が川面を見つめて時の流れを知る日が来るだろうか」
山の上のショッピングセンターで買ったイワシ。159円。
8匹入っていた。夕食はこれになった。ぼくが6匹、ヨッパライ某が2匹