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たそがれのCAR BOY
西日が射す店に入ってきたバイク少年は、カウンター奥の席に直行し、柱にもたれて、しばらく目を閉じていた。妙な既視感があった。それはむかし見た映画、真夜中のカーボーイのラストシーン。フロリダ行きのバスの後部座席で窓に顔を寄せたまま息絶えるダスティンホフマン。バイク少年は愛車アルファ・ロメオで湾岸をドライブし、帰りに寄ったのだが、逃げ道のない道路で渋滞に巻き込まれ、死ぬほど疲れたのだった。コーヒーを飲んで息を吹き返したバイク少年と、いつものように車の話を始めたが、ふと少し前に読んだネットの記事を思い出し、その話をした。それはビル・ゲイツが人生後半で悟った、人生で2番目に大切な意外なこと、で、それは「遊び心を持つこと」なのだという
Gaze of an Artist
夕食の風景
夕食のおかずの一つがヨッパライ某の発案による、一見、揚げ出し豆腐風、ミゾレあんかけキンツバ豆腐(←ぼくが命名)であったが、どうやら思った通りにできなかったらしく、ほんとはこういう風になるはずだったのに、という長い説明を聞かされつつ食べたが、ぼく的にはこれはこれで完成度は高いと思ったのでそう伝えたけれど納得できない様子であった。説明が一段落ついたところで、今日は常連のお客さんとこんな話をしたよ、とぼくは切り出した。そのお客さんの趣味が音楽鑑賞と写真なので、話題がその辺に集中することは多いのだけど、今日は朝からバッハのマタイ受難曲を聞いていたせいもあって、いつの間にかその受難曲の話になった。お客さんは主に小編成の室内楽を真空管アンプ(300Bの)とタンノイのフロアスピーカーで聞いていらっしゃる。以前、ご自宅に招かれた時、リュートによる優雅な室内楽でぼくを迎えてくださったのは忘れられない思い出となった。器楽曲が好みと聞いていたので、マタイ受難曲を鑑賞することはあまりないだろうと思っていたのだけど、レコードは持っておられるとのこと。でも、奥様が重苦しい音楽が好きでないそうで、このレコードをかけることはほとんどないとのことだった。ちなみにこの曲の出だしは正に重苦しい。なぜなら十字架を背負ったイエスを先頭にしての刑場ゴルゴタへの行進の情景から始まるのだから。
礒山雅(著)「マタイ受難曲」によれば
深沈とした、管弦楽の前奏。17小節目から満を持したように湧き上がる、悲痛な合唱。《マタイ受難曲》といえば誰でも、このすばらしい開曲のことを想起せずにはいられないだろう。この冒頭がわれわれの《マタイ》に対するイメージを規定しているのも、理由のないことではない。なぜなら、《マタイ受難曲》の開曲は、それまでの受難曲にほとんど前例のないほど、大胆なものだからである。
という話をヨッパライ某に話したところ、意外にも興味をそそられたらしく、「それ、私も聞いたことがあるかな?」と言い出した。「たぶん、ないと思う」というと、スマホを取り出し、検索して聞こうとしたので、テレビのスイッチを入れ、Youtubeでカールリヒター指揮のマタイ受難曲を呼び出した。彼女は真剣に聞いていたが、冒頭の合唱が終わると、「もういいかな」と言ったので、ぼくはテレビを消した
月面着陸に挑戦中
消すことはできないテレビ番組
先日読んだデイヴィッド・イーグルマン (著)「あなたの知らない脳—意識は傍観者である」がおもしろかったので、同著「あなたの脳のはなし」を購入し読みはじめた。読みはじめて間もなく以下に引用した文章にさしかかり、ちょっとうろたえた。わかっていたはずなのに、こうもあっさり言われるとけっこう戸惑う
色は周囲の世界の基本的性質だと考えられている。しかし実際には外部世界に色は存在しない。電磁放射線が物体に当たると、その一部が跳ね返って、私たちの目にとらえられる。私たちは何百万という波長の組み合わせを区別できるが、そのうちどれかが色になるのは、私たちの頭の中だけのことだ。色は波長の解釈であり、内部にしか存在しない。
(中略)
あなたの頭の外の世界は、実際にどう「見える」だろう? 色がないだけでなく、音もない。空気の圧縮と膨張が耳に拾い上げられ、電気信号に変換される。そして脳がその信号を、甘美な音色、あるいはヒューヒューやガタガタやガチャガチャという音として、私たちに示す。現実にはにおいもない。わたしたちの脳の外ににおいというものはない。空気中を漂う分子が鼻の中の受容体と結合し、私たちの脳によってさまざまなにおいとして解釈される。現実世界は豊かな感覚事象にあふれてはいない。そうではなく、私たちの脳が独自の感性で世界を照らし出すのだ。
こうも率直に述べられると、なんだか途方に暮れそうになる。いったい、現実とは何なのか。まぼろしとの違いは何なのか。それに答えてこの章は終わる。以下引用
では、現実とは何なのか?あなたが見るだけで、消すことはできないテレビ番組のようなものだ。ありがたいことに、最高におもしろい番組を放送している。それはあなただけのために編集され、カスタマイズされ、映し出されているのだ。
アルタクスになるところだった
今日は休み。天気もいいし、ドライブに出かけよう、という気分だったが、数日前、階段で転んでわき腹を打ったヨッパライ某が、車が揺れると痛い、というので、ドライブはあきらめることになった
そんなわけでヨッパライ某を家に残し、車で10分くらいのところにある蝋梅屋敷にロウバイの写真を撮りに出かけた
屋敷のご主人に、今年も写真を撮らせてください、と挨拶し、広い庭をカメラを持ってブラブラ。風邪シロップみたいな甘い匂いが辺りに充満
軽快なステップで水路脇の草むらにジャーーンプ! ズブッ。昨年末、ブラックフライデーで3割引きで買ったおニューの靴がこうなった
昼食は16分茹でる太麺スパゲッティーで昭和風ナポリタン。太いせいもあってか食感が独特。好みが分かれそう
泥まみれの靴を洗って天日乾燥。どこを見ても青い空。頭は空っぽ。時間が止まってる。こういう休日も悪くない
予想通り、夕食はナベになりました
A LONG VACATION 6日目
朝起きてカーテンを引くと空は暗いネズミ色、おまけに小雨が降っていた。今日は家で読書、と決めていたので、そうすることにした。ノーミソのスイッチを入れるためコーヒーを淹れる
左はSONYの電子書籍専用のE-inkリーダー。ほぼ毎日、10年以上使っているけど電池が少しヘタってきた以外には問題なく使えている。SONYストアの電子書籍しか読めない。右は昨年購入した各電子書籍ストアアプリ対応のE-inkリーダー。文庫本の小さな字が読みづらくなってこれを使うようになった。字の大きさを調整できるし、E-inkディスプレイなので長い時間読んでも目が疲れない
イギリスの詩人、サミュエル・テイラー・コールリッジのことを考えてほしい。一七九六年にアヘンを使い始めたのは、もともとは歯の痛みと顔面神経痛を和らげるためだった— しかしすぐに、取り返しがつかないほどのめり込み、週に二リットルものアヘンチンキをがぶ飲みするようになった。奇妙で幻想的なイメージにあふれた彼の詩『クーブラカーン』は、彼が「一種の夢想」と表現する、アヘンでハイになったときに書かれた。彼にとってアヘンは、自分の意識下の神経回路に接触するための手段になっていた。私たちは『クーブラカーン』の美しい言葉をコールリッジの功績だとする。なぜなら、それはほかならぬ彼の脳から生まれたものだからだ。そうでしょう? しかし彼はしらふのときには、その言葉を思いつかなかった。それなら、この詩はいったい誰が書いたものなのだろう?
カール・ユングが言ったように、「私たち一人ひとりのなかに、私たちが知らない別の人がいる」。ビンク・フロイドの言葉を借りれば、「僕の頭のなかに誰かがいるが、それは僕じゃない」
デイヴィッド・イーグルマン (著)「あなたの知らない脳—意識は傍観者である」より引用
元旦の夜、あちこちの電子書籍ストアをうろついてたら、ある店でその日限定の30%引きクーポンが当たった。なにを買おうか迷った挙句、いつか読もうと思っていた村上春樹の「街とその不確かな壁」をやめて「あなたの知らない脳—意識は傍観者である」を衝動買いしてしまった。そしたらなんと、読み初めてすぐにイギリスの詩人、コールリッジに関する記述が。「街とその不確かな壁」のエピグラフにはコールリッジの「クーブラカーン」の一節が引用されているのだ。
上に引用した「彼にとってアヘンは、自分の意識下の神経回路に接触するための手段になっていた。」は、春樹氏言うところの、「ぼくは地下二階に降りていってそこで何かを見、聞いて再び戻ってくる」とほぼ同義。以前「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を読んだときには、ちょっとしたパラダイムシフト気分を味わったものだったが、「街とその不確かな壁」はそれをさらに確かなものにしてくれそうな予感がある。春樹氏の小説にはユングや脳学者の説を物語で表現しているものがあって、思いがけず専門的な科学書を読んだときと同じレベルのパラダイムシフトを経験できることがある。よーな気がするかも
昼食は冷蔵庫にある適当な具材でパスタを作ることにした
いろんなものが入っていて栄養たっぷり。納戸に賞味期限が近づいているトマト缶があったので、それでトマトスープを作った。とてもおいしかったです
A LONG VACATION 3日目
A LONG VACATION 2日目
起床9時。顔を洗ってダイニングに降りるとだれもいなかった。ヨッパライ某は買い物に出かけたようだ。ポットのコーヒーをレンジで温め、屋上のテーブルで読書。会話の口調を整えるため、毎朝整った文体の本を読む
昨日、墓所に行く前に寄った花屋にアーティチョークの苗が売ってたので買ってきた。これは学生の時に読んだ、伊丹十三、ヨーロッパ退屈日記にカクテルのつまみとして登場する大型のアザミ。若いつぼみを食用とする、ヨーロッパの春野菜。いつか食べようと思いつつ、機会がないまま、すっかり忘れていた。
ヨーロッパ退屈日記の「カクテルに対する偏見」に続く「おつまみ」の項に、エスカルゴと並んで件のアーティチョークが述べられている。以下抜粋
アーティショーというものがある。英語でいうとアーティチョークである。(中略)これを二十分ばかり茹で、次に冷蔵庫に入れて冷やすのである。これで調理は終り。小皿にオリーヴ油を入れて、これにレモンを少々絞り、ブラック・ペパーをたっぷり、塩を少量振りかけてドレッシングを作る。食べ方、などといっても格別のことはない。アーティショーの葉っぱを、外側から順に一枚ずつむしってはドレッシングにつけて食べるのである。ただし食べるといっても、葉っぱの一番根元のところに少量の柔らかい肉があるだけだから、葉っぱの真中あたりを歯でくわえ、葉っぱの先端をつまんでしごくように引き抜くのである
というわけで苗を買ってきた。今日は午後から雨とのことで、明日か明後日、天気のいい日に大きな鉢に植え替える予定。大きく育つといいな
続いて年末恒例のキッチンの掃除。タイル、システムキッチン、冷蔵庫などに洗剤を吹き付け、ナイロンたわしでゴシゴシこすり、きれいな布で拭き取る。腕が痛いせいで3時間以上かかった。昼食は昨夜のお好み焼きのタネが残っていたので、それを焼いた。
夜は帰ってきた子どもたちと一緒にスキヤキパーティー。スキヤキはぼくが作るのが一番うまいので、ぼくが作った。ヨッパライ某が近くの肉屋から買ってきた肉がかなり上等だったので、いつもと違うやり方で作った。ネギは店のお客さんから頂いた無農薬の自家製ネギ。これを贅沢に使い、甘く香ばしい、家族からも大好評のスキヤキが完成、笑い声が絶えない楽しい夜になった。人間関係において食べ物の役割は大きい