あしたは休みだーーってなわけで、今夜はナベ。
そろそろナベのおいしい季節ですね
さよならぼくのヒゲソリ その2
もの食う二人
雨の祝日
Googleのページに、
Bard を試そう。Google の AI ツールでアイデアを形に
という文句が出ていたので、早速使ってみた。
読書の秋ってことで、「絶対読んだ方がいい本って何?」と質問してみた。すると、
具体的な本としては、以下のような本が挙げられます。
小説
ハリー・ポッターシリーズ(J.K.ローリング)
ロード・オブ・ザ・リング(J.R.R.トールキン)
不思議の国のアリス(ルイス・キャロル)
二十歳の原稿(村上春樹)
斜陽(太宰治)
へー、村上春樹の小説に「二十歳の原稿」なんてあったっけ。というわけで、Bardに「村上春樹の小説に「二十歳の原稿」ってありますか?」ときいてみた。すると、
はい、村上春樹の小説に「二十歳の原稿」という作品があります。1980年12月に雑誌「群像」に掲載された短編小説です。
とのことであった。
絶対読んだ方がいいらしいので、今度読んでみようと思います。
今日は何の日
ジジィモード
朝起きると時計は8時20分を指していた。しばらくしてスマホにメールが入った。「コーヒーが入ってます」
一階に降りてみたが人影はなく、しんとしていた。
ヨッパライ某は髪を切りに出かけていた。カップにコーヒーを注ぎ、屋上に上がってベンチに腰掛けた。今日は月曜日で定休日。でも祝日なので出かける予定はない。ふと思い立って夏目漱石の草枕を読み始めたが、めんどうな漢字がやたら出てくるので眠くなってきた。草枕はやめてテーブルに載ってたガルシアマルケス、わが悲しき娼婦たちの思い出を手に取った。これは既に読み終えていたのだが、おもしろかったのでまた読みたくなった。主人公は90の誕生日を迎えた独身のジジイ。
夕食はバーベキューになった。今年最後のバーベキューになりそう。
と、この前も書いた
生きる
臆面もなく昨日の記事から続くのだった
人生を生きよ、とフェルナンド・ペソアは言う。
「現実生活のどんな行為も、本当に行動しているのは自分ではない。動かされているのだ」
「なぜなら現実生活は、世間の生活は、自分自身に属しているどころか、他人のものであるからだ」(ぼくはまだ見てないけど、黒沢映画「生きる」がこの問題を扱っているんじゃないかと思う)
先日、夕食を食べながらヨッパライ某と話した。人はなぜ危ないところに行きたがるのか。植村さんはなぜ北極に出かけたのか。
もしかするとその答えがペソアの言うこれなのかもしれない。
「本当の自分自身であれ。それは夢みることによってしか到達できない」
ブルー
男たちは自分の中にある永遠の女性像を目の前の女性に投影してそれを追いかける。でもそれは幻だから追っても追っても逃げ水のように遠ざかってしまう。ユングの言うアニマがそれだ。昨日、青空に向かって山道を走ってると、カーオーディオから沢田研二の「コバルトの季節の中で」が流れはじめた。ぼくはとなりの女性にそのイメージを重ねることができる。現実と幻の境界を意識できるから。
「コバルトの季節の中に」の女性と、大瀧詠一の「ペパーミントブルー」の女性は男にとって幻の女性だ。畢竟、人生は幻なのか。フェルナンド・ペソアは次のように書いている。
人生を生きよ。人生によって生きられるな。真理にあっても誤謬にあっても、快楽にあっても倦怠にあっても、本当の自分自身であれ。それは夢みることによってしか到達できない。なぜなら現実生活は、世間の生活は、自分自身に属しているどころか、他人のものであるからだ。だから、人生を夢で置き換え、完璧に夢みることのみに腐心せよ。生まれることから死ぬことに至るまで、現実生活のどんな行為も、本当に行動しているのは自分ではない。動かされているのだ。生きているのではなく、生きられているのだ。
休日の前夜
時計を見ると23:08
あしたは休みだけど、いつまでも起きていると寝坊して貴重な休日が減ってしまう。
さっき、本を注文した。
ガルシアマルケスの「わが悲しき娼婦たちの思い出」。
川端康成の「眠れる美女」に触発されて書かれた小説だそうだ。
おやすみ