昼過ぎから雨になった。猫は雨が嫌い。犬は分からない。人はその時の気分による。植物は何も考えてない
女性は花にたとえられる。それが雨に濡れ佇んでいる。オトコは心のどこかで何かがゆらぐ。女性にはわからない
出会いはその人の人生を変えていく。人との出会い、本との出会い。最近、ぼくはある本と出会った。今日それを読み終え、すぐにまた最初から読み始めた。理由はショーペンハウアーが「読書について」で指摘しているとおり。この本はぼくにとって重要な本になる。この出会いによって世界は広がりを増し、変化する。
「反復は勉学の母である」。重要な本はどれもみな続けて二度読むべきだ。二度目になると内容のつながりがいっそうよくわかるし、結末がわかっていれば出だしをいっそう正しく理解できるからだ。また二度目になると、どの箇所も一度目とはちがうムード、ちがう気分で読むので、あたかも同じ対象をちがう照明のもとで見るように印象も変わってくるからだ。
ショーペンハウアー「読書について」より
朝起きて空を見ると、なにも言いたくないくらい晴れていた。こんな日はどこかでスパゲティーでも食べて、草原に寝転がってコーヒーを飲みながら日向ぼっこをするのがよさそうだと思ったが、念のため、ヨッパライ某に何が食べたいか聞いてみたところ、魚が食べたい、とのことだった
魚がうまいところ。今日頭に浮かんだのは、変な顔の犬がいる海が見えるあの店だった。ここの魚定食は、見た目はぱっとしないのだけど、味はバツグン。メニューに、期間限定ウニ丼定食、というのがあってちょっと悩んだのだけど、2500円もしたので、いつものように日替わり定食にした。1080円。とてもおいしかったです。
運転しながら、映画、ベンジャミン・バトン 数奇な人生、の主人公のことを考えていた。彼は何かを求めて旅を続ける。物でも、成功でも、安住でも、名誉でもない。彼にとって、かけがえのない何か。それを求め続けることで、彼は彼になっていく。ぼくも何かを求めて旅を続けている。人生は旅そのもの
「伝えたいことを伝えることができない」という問題は悲劇的だ。その悲劇の主人公、つまり、ぼくの場合、その、伝えたいことの構造に問題があることが最近読んだ本によって分かったのである。かも。以下抜粋
知識の探求に明け暮れたその生涯の終局に、ファウストが「われわれは何も知りえないのだということが、私には分かった」と言うとき、それこそ結論なのである。しかし、それは、この命題を入学したばかりの学生が自分の怠惰を正当化するために使う場合とは、まったく別の事柄である。この命題は、結論としては真理であるが、前提としては自己欺瞞である。
この点に関して教育の問題は、根本的ディレンマを持っているのではないでしょうか。つまり、みずからの深い実存的「経験」にもとづいてはじめて定義できる事柄を、教育者は、未経験な次の世代に、あらかじめ「結論」として教える立場にある。
すなわち、ある認識は、その中でこの認識が獲得された実存から切り離されることはできない。のです。
「自分が好きなものだけはわかる。それも頑としてわかる。それだけは確かね」
これ、白洲正子さんがある本の中で言っていた言葉。
好きなもの、好きなことがあれば、それだけで前へ進める。
昨年の8月、路地裏を歩いていたら変な車が前から走ってきた。googleって書いてある。もしかしてあれかな、と思って振り返ったのがこの写真。ついにストリート・デビュー。顔はないけど。