わーい、明日は休みだぁ~~っ。てなわけで、ナベ。ビールで乾杯。
わーい、明日は休みだぁ~~っ。てなわけで、部屋で聞きたい音楽を聴く。
それにしてもこのジャケット、なんとも黙示的で見るたびに気分がリセットされる。
「独学大全」の著者が薦めていたマンガの最終巻が発売されたのでさっそくダウンロード。上のカットは主人公が、周囲の反対を押し切って結婚した母に、その理由を尋ねたときの一コマ。ちなみに主人公の母はイタリア人
気が付けばもう7時。閉店時間だ。
いつものようにぼくは悩んでいた。
後片付けをしながら真剣に悩んでいた。
ところが、ふとしたはずみで何を悩んでいたのか忘れてしまった。
何だったのだろう。思い出せない。
今そのことで悩んでいる。
少し前に出版された「実在とは何か ――量子力学に残された究極の問い」という本がおもしろそうなので某熱帯雨林でポチろうとしたのだが2750円はチト高すぎると思い、とりあえず図書館で借りようと市立図書館で蔵書検索したがまだ入ってなかった。数日前「すべては幻だ」なんて、臆面もなく妙に思いつめたふりをした記事を書いたのだが一応理由はある。自分を取り巻く世界はそれを本人がどう認識するかでガラガラ変わる。ずいぶん前のことだがユクスキュルの「生物から見た世界」という薄っぺらい本を読んでぼくの世界観は根底からひっくり返った。ぼくの世界観がその本に負けず薄っぺらかったせいなのだが、小心者のぼくは俄かに不安になった。世界とは何なんだろう。ぼくの頭が勝手に創作した幻なのか。動物行動学者の日高敏隆さんは「イリュージョンなしに世界は見えない」と言っていた。世界は幻を通してでないと見えないのだ。なんと居心地の悪い話だろう。一方、量子力学の世界もはっきり言って気持ち悪い。ユクスキュルの話よりたちが悪い。俄かには信じがたいどう見ても狂った世界なのだ。本当にこれは科学なのだろうか、と、首をひねらずにはいられないのだが、どうやら間違っているのはぼくの常識であるらしい。前置きが長くなったが、2750円もする「実在とは何か ――量子力学に残された究極の問い」という本に、ぼくの頭では理解できない、まったく腑に落ちない、あのコペンハーゲン解釈についての新しい知見が述べられていそうな気配なので読んでみようと思ったのだった。
この本の紹介記事に次のように書いてある。
ファインマンも、数学的に等価な二つの理論を実験によって区別することはできないが、どちらの理論を選ぶかは、その人の世界観に大きな違いをもたらすと指摘している。科学理論は実験結果だけから構築することはできず、世界観を必ず伴っている。つまり、新しい物理学をもたらすには、新しい世界観が必要なのだ。
新しい世界観があるということは古い世界観もあるということだ。ユクスキュルの本を読む以前のぼくは古い世界の中で生きていたといえる。あの頃のぼくには見えなかった世界の有様が今のぼくに見えるように、量子力学はそれを学ぶ人に新しい世界観をもたらす。
あの素晴らしい愛をもう一度、という古い曲に次のようなフレーズがある。
あの時 同じ花を見て
美しいと言った二人の
心と心が 今はもう通わない
あの素晴らしい愛をもう一度
人は一人ひとり異なった世界観を持つ。
一見、同じ花を見ているように見える二人。でも、二人が見ているのは同じ花ではない。
昨日のこと
山を越え、車は海に向かっていた。
カーステレオから井上陽水の歌が流れはじめた。
あさき夢
あわき恋
遠き道
青き空
そのとおり。すべて幻