冬至

冬至の太陽。心なしか元気がない

明日は雪になるかもしれない、という予報

ゆず湯、にしたかったけど、買ってくるのを忘れたので、しかたなくミカン、にしたかったけど、なかったので、スダチ

あしたは休みなのです

桜島に雪が積もってたー、というわけで、今夜はナベ。寒い夜はナベがええなー。ナベの後、二人でワインを飲んでたら、目の前の女性が、男の脳と女の脳はずいぶん違うんだって、という話を始めた。ものを見る角度や考え方がかなり違うという。どうでもよさそうな話だったが、数日前、店にいらした女性が似たような話をしたのを思い出し、つい、その話をしてしまった。
「男は以前付き合っていた女性を一人ひとり別個に憶えているけど、女は前の男に次の男を上書きしていくのよ」
すると目の前でワインを飲んでいた女性が言った。あなたはどうなの?

捨てるのは難しい

お盆と年末の二回、仕事で使っている珈琲焙煎機を分解して掃除する。今日は排気ファンを取り外してファンにこびりついている煤みたいなのをスクレーバーでかき落とす作業をした。その際、手を保護し、汚れからまもるために軍手をするのだが、これが使っているうちに煤と油で真っ黒になる。問題は、軍手が汚れてくると煤が軍手の内側まで染み出し、手が汚れるようになるのに、まだ使えると自分に言い聞かせ、穴が開くまで使おうとすること。汚れた軍手を使うから手は真っ黒になる。軍手をするとかえって手が汚れる。それでもなかなか捨てきれない。

愛のメモリー増設その2

仕事場で使っているノートパソコンが、いくつかアプリを立ち上げて作業をするとスワップしまくって作業が滞るようになった。以前はそれほど気にならなかったのだが… 近頃のアプリはメモリの使用量が増えているのかもしれない

古いパソコンなので実装されているメモリは4GB。事務用だし、パソコン本体を買い替えるほどの問題はないので、とりあえずメモリーを増設することにした。メルカリで中古を漁ると同じものが1500円。計8GB。ぼくのノーミソもこんなふうに増設できたらいいのに

流れ星

風呂から上がり、屋上で涼んでいた。東の空にスイカのような月が浮かんでいた。南の空にはオリオン、頭の上には火星が光っていた。流れ星を見たら下に降りよう、と思い、しばらく空を眺めていたが、いつまでたっても流れなかった。あきらめて降りようと思ったとき、火星の横からプレアデスに向かって、けっこう大きな星が流れた

ワクチン二日目

ベッドから起き上がり、よろめきながらドアを開けると朝の光が部屋に射して充満した。今日は第一火曜で仕事は休み。どこかドライブに出かけたかったが、ヨッパライ某がワクチンの副反応で寝込んでいる。

一人で遠くに遊びに行くのは、なんだか悪いような気がしたので、近くの公園に行って、好きな木の写真を撮ることにした

鮮やかに紅葉しているモミジバフウ。葉っぱが寒そうに震えていた。何かぼくに話しかけてるみたいに

公園を歩き回っていたら腹が減ってきた。家に戻って冷蔵庫をあさり、焼きそばを作った。味付けは塩とコショーとナンプラー。休日なのでニンニクをたくさん入れた。とてもおいしかったです。ヨッパライ某は寝込んだまま起きてこない

午後4時。太陽は西に大きく傾いている。もうすぐ冬至だしね。冬を少しでも楽しもうと思い、屋上に出て熱いコーヒーを飲んだ

ワクチンの夜はミスティ

今日は仕事は休み。ドライブに出かけたかったが、午前中は5回目のワクチンを打つ予定になっていた。繁華街にある病院で接種を済ませ、昼食はデパートの食堂で、かた焼きそばの大盛り

デパートの地下で饅頭を買って、グループホームにいる大正生まれの伯母を訪ねた。コロナのせいで、近くで話すことはできなかったが、元気そうだったのでほっとした。雨の中を走って海に出る。冷たい雨と風が心地よかった

帰りにスーパーに寄ってワインを買った。変なラベルの瓶が目についたので、それをチョイス。夕食後、スモークチーズをかじりながらグラスを傾ける。スモーキーなのにミスティな夜

ロマンチストは やめられない

先日「かごしまタラソニュース」を発行しているYさんからこんなメールが届いた。

「かごしまタラソニュースを購読されている複数の読者から、長島さんはとてもロマンチストなんですね。文章を興味深く読ませていただきました、との声が寄せられました」と。

少し前ブログに書いたのだけど、ぼくはタラソニュースに「私と海」という題のエッセイを書いた。それを読んだ読者から、これを書いた人はヘビー級のロマンチストですね、との感想が届いたという。
やれやれ、またか。ぼくはメールを読んで思った。数日前もある女性に「あなたってロマンチストね」と言われたばかり。ぼくのことをロマンチストと呼ぶ人はとても多い。特に女性たちからは。ぼくが勝手にそう思っているだけなのだろうけど、ロマンチスト、という響きにはどこか現実逃避的な、あるいは星菫派の詩人よろしく感傷的な世界に耽って閉じこもっている偏屈者、といったイメージが重なる。そう、決して褒められているようには思えない。確かにぼくはロマンチストだ。しかし、世のロマンチストたちがきっとそう思っているように、ロマンチストはやめられない。ずっとロマンチストでいたい。(もちろん、やめようと思って止められるものでもない)
ぼくの書いた「私と海」に、レイチェル・カーソンのセンス・オブ・ワンダーの一節を引用したが、その巻末には次のような一文がある。

わたしは、スウェーデンのすぐれた海洋学者であるオットー・ペテルソンのことをよく思い出します。彼は九十三歳で世を去りましたが、最後まで彼のはつらつとした精神力は失われませんでした。彼の息子もまた世界的に名の知られた海洋学者ですが、最近出版された著作の中で、彼の父親が、自分のまわりの世界でなにか新しい発見や経験をするたびに、それをいかに楽しんでいたかを述べています。「父は、どうしようもないロマンチストでした。生命と宇宙の神秘をかぎりなく愛していました」オットー・ペテルソンは、地球上の景色をもうそんなに長くは楽しめないと悟ったとき、息子にこう語りました。「死に臨んだとき、私の最後の瞬間を支えてくれるのは、この先に何があるのだろうかというかぎりない好奇心だろうね」と。