熱いトマト

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今、店の屋上の菜園では、トマトが腐るほど生っている。腐るともったいないので毎日ちぎってきては食べている。
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屋上は日当たりがいいので、トマトは夏の日差しを思い切り浴びて湯気が出そうなくらい熱い。それを水道水でさっと洗って食べる。熱いトマトは風味が強く、とてもうまい。

月夜のサソリ

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                   月
   さそり座                         土星

ひと夏の物語

グレートギャツビー、物語としては特に目を瞠るものはなかったけれど、文体が秀でて詩的でロマンチック。ひねった比喩が多く、それがたまらなくいいのだけど、婉曲な表現が嫌いな人には読みづらいかも。語り手のニックは30歳にしては達観を得ているというか、どこか妙に醒めていて爺くさいといえば爺くさい。良い酒を味わったような、独特な読後感があって、満足度は高かった。

ぼくと僕

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なぜかグレートギャツビーを読みたくなって、どうせなら村上春樹が訳したのを読もうと思い、熱帯雨林で調べると「一時的に在庫切れ; 入荷時期は未定です」となっていた。本音をいえば、字の大きさを自由に変えられる電子書籍で読みたかったのだけど、今のところ村上春樹の作品は電子化されそうにない。というわけで、野崎孝という人の訳した電子版をダウンロード。家に帰れば、この人訳の文庫本が息子の本棚にあったはずなのだが…専用のブックリーダーで読みつけると、ちょっと元には戻れない。

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この作品は一人称「ぼく」で始まる。これが村上春樹訳なら、おそらく「僕」となる。「僕」と「ぼく」では、印象がずいぶん異なる。いうまでもなく、ぼくは「ぼく」がいい。なぜかしっくりくる。そんなわけで、この本は野崎孝訳でよかった、と、今は思う。まだ読み始めたばかりだから結論を出すには早いけど。ぼくがブログなどで「ぼく」を使うようになったのは、あるSFを読んでから。それはハインラインの書いた「夏への扉」

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かくいうぼくも夏への扉を探していた。冬は、ぼくの心の中にあったのだ。

青空一人きり

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君はおぼえているだろうか。プールで泳いだ帰り道、20円のダブルソーダを買い、二つに割って歩きながら食べたよね。それがぼくらの日課だった。でも、あの日、君は言った。ほんとはダブルソーダなんか嫌いだって。あの日から君は変わってしまった。あの日も今日みたいに暑い日だった。

ネコに水やり

夜、家に帰ってベランダに出ると、強い日差しのせいで、プランターのバジルがしおれていた。水をやるべく、洗面器にたっぷり水を入れ、プランターに向かう。早速ネコがやってきて、うるさく足にまとわりつき、危うく転びそうになる。くそ! ぼくの手には水を湛えた洗面器。ぼくはある誘惑を抑えられなくなる。

やっぱり夏がきた

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一見、ヒマ人っぽい俺。もちろん本当は違う。
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屋上菜園に赴くと、苦しげにカムフラージュされた小さなスイカを発見した。
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トマトが腐るほど実っていたので、ひとつ失敬する。
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トマトの近くに生えていたレタスと、頂き物のリエットを挟んで3時のオヤツ。小さな幸せ。でも確かな幸せ。