ころげながら走り続けたのさ

夏は好きだけど春より先に来ては困る。そうだ、夏はしっかリ春を味わった後に、そして、じめじめした梅雨の後に来なくてはいけない

高村幸太郎も同じようなことを言っていた。

いやなんです
あなたのいつてしまふのが――

花よりさきに実のなるやうな
種子よりさきに芽の出るやうな
夏から春のすぐ来るやうな
そんな理窟に合はない不自然を
どうかしないでゐて下さい
型のやうな旦那さまと
まるい字をかくそのあなたと
かう考へてさへなぜか私は泣かれます
小鳥のやうに臆病で
大風のやうにわがままな
あなたがお嫁にゆくなんて

智恵子抄「人に」

小鳥のやうに臆病で、大風のやうにわがままな、あなたがお嫁にゆくなんて。

春もわがまま。待ってくれと叫んでも、笑いながら逃げていく

泣きながら君のあとを追いかけて
花ふぶき舞う道を
ころげながらころげながら
走りつづけたのさ

もとまろ「サルビアの花」

真剣なまなざしでチューリップの写真を撮っている女の子。彼女はどんな気持ちで撮っているのだろう。そこに何を感じているのか。異性のぼくには想像がつかない

春がきた

今日は年に一度の定期検診の日。週に一度の貴重な休日なのに自由に使うことができない。雨が降ればあきらめがつく。でも、朝から思い切り晴れていた

病院に行くたび本気で思う。健康って本当に大切。気をつけなきゃ!って。でも、すぐに忘れてしまう。検査が終わったのが11時。いそいでポットにコーヒーを詰め、海沿いの道路を南に向かった。怪獣池近くのイタリアレストランでランチ。ぼくはスパゲティの大盛りを注文。とてもおいしかったです

植物園でチューリップの写真を撮っていたら、どこからかミモザの匂いが漂ってきた。ふと、心のどこかで窓が開き、冬がそそくさと出て行った、よーな気がした

春の色。春の音。春の匂い

イズノオドリコが咲きはじめていた

ミモザが甘酸っぱい匂いをあたりに漂わせていた

夕食はヨッパライ某が作ったハンバーグ。とてもおいしかったです

ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか

むかしウイスキーのCMにこんなのがあった。「ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか、ニ、ニ、ニーチェかサルトルか、みーんな悩んで大きくなった」
でもなー、出来たら悩まずに日々過ごしたいものだと思う。だけどそれじゃ、サルと同じかもね。サルが聞いたら怒るかな

つまらないことを悩みながら車を走らせてたら、海の近くのレストランに着いた。そういや、失恋レストラン、なんて歌があったっけ。ぜんぜん関係ないけど

ダンスダンスダンス

天気が良かったのでドライブを兼ねて山の上の美術館に行ってみた。

まだ見たことのないモノ・コトを世の中に発表していく「Rhizomatiks Research」とかいう、なんだか難しそうなのをやっていた。

ヘッドホンをかぶり、不思議な音楽を聴きながら光の航跡をたどる。ヨッパライ某は、E.T.みたいだったね、と言った。ぼくも同じことを思ったので、これこそE.T.だと思った

これが一番おもしろかった。三方の壁と床に投影されたCGの女の子たちが空間を踊りまくる。できたらお酒を飲んで、ちょっと酔って、一緒に踊りたい。かも

ウルトラマンは空を見つめ、M78星雲に飛び立とうとしていた

昼食はいつものように東洋のナイアガラまで走り、茶屋でナイアガラ定食にした。ここの鯉こくはとてもおいしいです。

ソフトクリームを食べているおばさんがいた。ぼくは食べる気になれなかった。なぜかここではソフトクリームのスイッチが入らない

発電所は半分沈んでいた

砂の上の足跡

ディーラーで車の点検整備を待つ間、近くの海まで散歩に出かけた。これはむかし堤防で使っていた灯台だそう。わが家にも一つ欲しい。もちろん夜になったら点灯させます。船や飛行機がぶつからないようにね

ヨッパライ某がカレーを食べたいというので、海が臨める眺望のいい洋食店で昼食にするつもりだったのだけど、行ってみたら休み。そんな日もある。いつものように海の近くの店まで走り、ヨッパライ某は海鮮丼、ぼくは魚フライを注文

海辺をぶらぶら。真冬だけど春みたい。早く夏が来ないかな

太陽は一人ぼっち、なんてフレーズが頭に浮かぶのは。ぼくも一人ぼっち、って感じるとき。悩むことはない。みんなひとりぼっち

ここはどこでしょう

たぶん宇宙人の足跡

夕食はギョーザ

ヨッパライ某が「999円以下で最も旨いワイン金賞受賞」というのを買ってきた。おいしかったです

A LONG VACATION 6日目

なんとなくエビフライが食べたくなって、いつもの漁港近くのスシ屋に向かった。空はひたすら青く、悲しいほどお天気。わけもなく悲しくなると天気のせいにしたくなる。ビートルズもそう歌ってた
Because the sky is blue
It makes me cry
Because the sky is blue

海の近くの公園でコーヒーを飲んだ。空は遠く青く、風も強かった。だけど何かが違う。今日来たかったのはここじゃなかった。車に戻り、海沿いの国道を北上した。一時間ほどで小さな漁村に到着した。

空き地に車を停め、廃墟が点在する小さな集落をぶらぶら歩く。何故か気分が落ち着いてくる。今日の居場所はここだった

A LONG VACATION 4日目

たぶん、いつもと違う朝。だれよりも早く起きてしまった。屋上に出てコーヒーを飲む。太陽は見えない

元日用お正月セット

夏休みの宿題で作った貝殻や昆虫の標本箱を思い出す

わが家の元日は、なぜか、おでん。

午後から南の方にドライブ

日が暮れてきた

某植物園のイルミネーション

A LONG VACATION 1日目

というわけで一年のうちで一番長い休みが始まった。目覚ましの鳴らない朝は、いくつになっても子供のようにうれしい。朝日の射す明るい部屋でコーヒーを飲み、しばし読書。10時30分、ヨッパライ某と車に乗り込む。墓の掃除と店の大掃除。途中、花屋に寄る。正月用の飾りが並んでいて、なんだか急に年末気分になり、ほんわかした。

天気のいい日の墓掃除は楽だ。そういえば、今まで雨が降った記憶がない。雨の日に墓掃除なんて絶対したくない。想像しただけで怖い。お化けが出そうな気がする。

店の大掃除の前に、駅ビル地下のラーメン屋で腹ごしらえ

店の機械を分解掃除し、ステンレスポットを洗う。大掃除が終わったのが5時30分。夕食をどこで食べるか迷ったが、考えるのがめんどくさくなって、いつもの漁港近くの寿司屋に向かった。山を越え、海沿いの道路を南下。到着したのが7時20分。ぼくはタカエビ定食、ヨッパライ某は生ビールと地魚定食を注文。はらが減っていたので、ご飯をお代わりした。

店を出た後、近くの漁港に灯台を見に行った。真っ暗闇の中に光が点滅しているだけで、写真に撮るのは難しそうだった。

ラプソディ

朝起きて時計を見ると8時35分だった。目覚ましを切って寝ると、だいたいこうなる。天気がいいので、ポットにコーヒーを詰め、ドライブに出かけることにした。

昨夜、ヨッパライ某とその娘は、ボヘミアンラプソディ、という映画を見に行っていた。とてもおもしろかったそうだ。というわけで、ドライブのBGMはクイーンのアルバムをチョイス。ロックは大音量で聞かなきゃ意味がない、という持論があるので、デカい音でガンガン鳴らしながら高速道路を飛ばした。

行先は、むかし、某コーヒー店の近くにあったイタリアレストラン。そこのキノコスープが無性に食べたくなったので、その移転先に出向くことにしたのだった。

冬の海。灯台。熱いコーヒー。

人生とは・・・
なんちゃって

今夜はクリスマスイブ。帰りにスーパーに寄って、いつもより高いワインを買った。とてもおいしかったです。

クリスマスイブなのにモツ鍋。 なんか違う

くもり空

時間に追いかけられる感じ。むかしはさほど気にならなかったのに。気持ちに余裕がなくなり、妙に息苦しい。先週がそんな感じだった。

ぼくの考えによれば、上手に生活すれば時間は透明化し、意識に上ってくることもない。はずなんだけど。まあ、無理だね

というわけで、天気はパッとしなかったが、カメラを持って山の上の公園に出かけた。

曇った日には曇った写真を撮る。気分も晴れないから曇った写真が撮れる。

同行する同伴者に対しては、できるだけ明るく振舞おうと努力する。なぜなら、ぼくもそうして欲しいから。暗い顔を見ると冬のような気分になる

山を下り、海に面した公園に行った。海を見ようと海に向かってとぼとぼ歩いているうちに雨が降り出した。

帰りにディスカウントストアに寄って夕食の材料を買う。ぼくは安いワインを一本買ってもらった。家に帰りつき、郵便受けを見ると、注文した本が届いていた。先日、火野正平の本を借りて読んだらおもしろかったので、「人生下り坂最高!」というのを買ってみた。たまたまだけど、この、「人生下り坂最高!」というテーマは、今読んでいる「新・安心して絶望できる人生」のテーマとどこか被るところがある。以下、そのまえがきより抜粋


—- しかし、病気や人間関係も含めた生活上の苦労が解消しても、依然として私たちには「老い」を含めた「生きる」というあたりまえの苦労が待っています。それは「夜と霧」で知られた精神科医V.フランクルが人間を「ホモパティエンス—苦労する人間」と言ったのとも共通しています。四十年を超えるソーシャルワーカーとしての私の経験を振り返っても、一番厄介だったのがそのような日々を生きなければならない「自分とのつきあい」でした。その経験から生まれたワーカーマインドが「一番つきあいの難しいクライエントは私である」という自己理解です。その意味では、精神障がいとは、そのような生きる苦労が究極に“煮詰まった”状態—苦悩の最大化—と言えます。しかし、当事者研究の活動をとおして学んだのが、苦痛であった「病気」が、現実の「苦労」に変わり、そして避けて通ることのできない「苦悩」の領域に、みんなで「降りていく生き方」の中に、“人生の回復”があるということです。「研究する」という、“降りかた”によって、私たちの日常はこころを躍らせる未知の世界への冒険や探検に変わるのです。—-


当事者研究とは、この本によると、

2001年にはじまった「当事者研究」は、統合失調症や依存症などを抱える若者たちが、仲間や関係者とともに、病気とのつきあいも含めた自らの生活上の苦労を「自分の研究者」になったつもりで考え、そのメカニズムを解き明かし、そこから生み出した「知」を日常の暮らしに役立てようという試みで、現在は、国内はもとより海外にも広がり、世界的にも注目を集めるようになりました。

というものです。

以下はある若者の研究発表からの抜粋ですが、ぼくはこれを読んでずいぶん心を揺さぶられました。


「生」と「死」は両極端のようでありながら、同じ方向をさしている。「死ぬために生きる」この矛盾した感覚がどうも落ち着かない。人として生まれたからには、やっぱり人と人とのつながりを感じていきたい。目を閉じたときに、暗闇の中にポツンと存在する自分を見ると「なんて儚いんだろう」と思う。物や情報の中に存在していると、なんだか力を得たような気分になる。でも、そういうものは幻の感覚なのかもしれない。短大を中退して以来九年間ずっと同じ苦労のサイクルをくり返してしまった。自分の居場所探しの旅は、海外も含めて九千キロにも及び、やっと、今、浦賀に辿りついた。ここでは、自分の気持ちをあたりまえに公開できて、自分の気持ちを語れる場がある。そして、それを聞いてくれる仲間がいる。気持ちを言葉にする……そんなあたりまえのことがどんなに大切なことであったのか、ここに来て改めて気づかされた。人と人が心でふれあえるあの感覚。浦賀に来てそういう人から感じるやさしさにふれ、幸せを感じている。みんな、弱さをもっているからこそ心と心のコミュニケーションが成立するのかもしれない。人は人の中で存在し、死を迎える。だからこそ、人として生まれた意味を追求したい欲求が消えることはない。


暗闇に降りてみないと大切な光は見えないのかも