時間に追いかけられる感じ。むかしはさほど気にならなかったのに。気持ちに余裕がなくなり、妙に息苦しい。先週がそんな感じだった。
ぼくの考えによれば、上手に生活すれば時間は透明化し、意識に上ってくることもない。はずなんだけど。まあ、無理だね
というわけで、天気はパッとしなかったが、カメラを持って山の上の公園に出かけた。
曇った日には曇った写真を撮る。気分も晴れないから曇った写真が撮れる。
同行する同伴者に対しては、できるだけ明るく振舞おうと努力する。なぜなら、ぼくもそうして欲しいから。暗い顔を見ると冬のような気分になる
山を下り、海に面した公園に行った。海を見ようと海に向かってとぼとぼ歩いているうちに雨が降り出した。
帰りにディスカウントストアに寄って夕食の材料を買う。ぼくは安いワインを一本買ってもらった。家に帰りつき、郵便受けを見ると、注文した本が届いていた。先日、火野正平の本を借りて読んだらおもしろかったので、「人生下り坂最高!」というのを買ってみた。たまたまだけど、この、「人生下り坂最高!」というテーマは、今読んでいる「新・安心して絶望できる人生」のテーマとどこか被るところがある。以下、そのまえがきより抜粋
—- しかし、病気や人間関係も含めた生活上の苦労が解消しても、依然として私たちには「老い」を含めた「生きる」というあたりまえの苦労が待っています。それは「夜と霧」で知られた精神科医V.フランクルが人間を「ホモパティエンス—苦労する人間」と言ったのとも共通しています。四十年を超えるソーシャルワーカーとしての私の経験を振り返っても、一番厄介だったのがそのような日々を生きなければならない「自分とのつきあい」でした。その経験から生まれたワーカーマインドが「一番つきあいの難しいクライエントは私である」という自己理解です。その意味では、精神障がいとは、そのような生きる苦労が究極に“煮詰まった”状態—苦悩の最大化—と言えます。しかし、当事者研究の活動をとおして学んだのが、苦痛であった「病気」が、現実の「苦労」に変わり、そして避けて通ることのできない「苦悩」の領域に、みんなで「降りていく生き方」の中に、“人生の回復”があるということです。「研究する」という、“降りかた”によって、私たちの日常はこころを躍らせる未知の世界への冒険や探検に変わるのです。—-
当事者研究とは、この本によると、
2001年にはじまった「当事者研究」は、統合失調症や依存症などを抱える若者たちが、仲間や関係者とともに、病気とのつきあいも含めた自らの生活上の苦労を「自分の研究者」になったつもりで考え、そのメカニズムを解き明かし、そこから生み出した「知」を日常の暮らしに役立てようという試みで、現在は、国内はもとより海外にも広がり、世界的にも注目を集めるようになりました。
というものです。
以下はある若者の研究発表からの抜粋ですが、ぼくはこれを読んでずいぶん心を揺さぶられました。
「生」と「死」は両極端のようでありながら、同じ方向をさしている。「死ぬために生きる」この矛盾した感覚がどうも落ち着かない。人として生まれたからには、やっぱり人と人とのつながりを感じていきたい。目を閉じたときに、暗闇の中にポツンと存在する自分を見ると「なんて儚いんだろう」と思う。物や情報の中に存在していると、なんだか力を得たような気分になる。でも、そういうものは幻の感覚なのかもしれない。短大を中退して以来九年間ずっと同じ苦労のサイクルをくり返してしまった。自分の居場所探しの旅は、海外も含めて九千キロにも及び、やっと、今、浦賀に辿りついた。ここでは、自分の気持ちをあたりまえに公開できて、自分の気持ちを語れる場がある。そして、それを聞いてくれる仲間がいる。気持ちを言葉にする……そんなあたりまえのことがどんなに大切なことであったのか、ここに来て改めて気づかされた。人と人が心でふれあえるあの感覚。浦賀に来てそういう人から感じるやさしさにふれ、幸せを感じている。みんな、弱さをもっているからこそ心と心のコミュニケーションが成立するのかもしれない。人は人の中で存在し、死を迎える。だからこそ、人として生まれた意味を追求したい欲求が消えることはない。
暗闇に降りてみないと大切な光は見えないのかも