年末の大掃除を開始した。
あー、めんどくせーなー!
ダレか代わりにやってくれないかな~、
なんてブツブツ言いながら始めるのだけど、いったんやりだすとだんだん面白くなってきて夢中になってしまう。オレってバカなのかな
休みだけど
今日は月曜日で定休日。いつまでも寝ていたかったが、朝一番でヨッパライ某を病院に連れて行かねばならない。病院の駐車場でヨッパライ某を待つ間、特にすることもないので近くのコンビニでコーヒーを買い、車内で本を読むことにした。ちょうど数日前、期限切れ直前のポイントでダウンロードしたチャンドラーの「さらば愛しき女よ」があったのでそれを読んだ。
一昨日の夜からヨッパライ某は熱を出し、昨日は店を休んだ。インフルエンザ、あるいはコロナかも、ってことで心配したが、病院の検査では陰性だった。いつもならドライブに出かけるのだけど、今日は一日寝てるから、ってことだったので、ぼくは一人近くの公園に出かけ、野良犬のようにうろうろ歩きまわった。夜は冷蔵庫の余り物で鍋にしたが、味噌で味付けをしたら失敗し、かなり落ち込んだ。
オープンダイアローグ その2
仕事を終え、家に帰り着いてドアを開け、「ただいま~」と言いつつヨッパライ某の顔を見て思わず息を呑み、後ずさった。目の前に立っていたのは「お岩さん」だったのだ。庭で草取りをしていて右目の近くを虫に刺されたという。どうすればいいかわからなかったので、ご主人が医者をやってる友人に顔の写真をラインで送ったそうだ。返事は「ほんとに虫なの?」。DVと思われたようだ。
熱帯雨林に注文した本が届いた。10年くらい前に読んだ斎藤 環 著「オープンダイアローグとは何か」は、ちょっとしたパラダイムシフト気分を味わわせてくれたステキな本だった。その著者が、どうしても納得できないオープンダイアローグの謎について、ついに自ら立ち向かう、という内容の本らしい。ウフ
以下、本文より
目下の私の悩みは、もはやオープンダイアローグの実践と普及の難しさ、ではありません。自分でやっていながら、いまだによくわからないことがあるのです。つまり、「なぜ対話ごときで、精神病が治るのか」という根本的な疑問です。たしかに私たちは、複数の患者とともに、着実に回復の道を歩んでいます。オープンダイアローグがあれば、それができる。この点についての確信は揺るぎないものです。しかし「なぜか」がわからない。なぜ対話するだけで、これほどの変化が生ずるのだろう。なぜこんな「ふつうのこと」で、回復が起きてしまうのだろう。これはあえていえば、哲学的な疑間です。対話とは何か、人が変わるとはどういうことか、そして「回復」にはいったい、どんな意味があるのか。私のこうした疑問に対しては、ヤーコ・セイックラの著書やミハイル・バフチンの著作に、ある程度まではヒントや答えが記されています。しかし実際のところ、私はそれらの答えにまだ十分には納得していません。ここから先は、どうやら自分で考えていくしかなさそうです。そういうわけで私は、本書でオープングイアローグの「思想」を、可能な限り掘り下げてみようと思い至ったのです。
金曜日の午後
違和感
数日前に読んだ本の森本あんりさんと上野千鶴子さんの対談が興味を引いたので、以下、備忘として
日本の大学は「メタ知識」を生み出せていない
上野先生と言えば、二〇一九年度の東京大学入学式での祝辞が話題を呼びましたよね。知の創造性や多様性の価値など、これから学問に向き合う学生たちにふさわしいお話だと、私も感銘を受けました。
ありがとうございます。スピーチでは、まだ見たことのない知を生み出すための知を「メタ知識」と呼ぼうと訴えたのですが、じつは私自身、この名称がいまだにしっくりきていないんですよね(笑)。心理学には「メタ認知」という概念がありますが、それとは違います。
「メタ知識」とは、既存の知識の枠組みを飛び越える一段高次元の知のことですよね。
ええ。かと言って、ノウハウやスキルといった言葉を使うと、どこか軽く聞こえてしまいますし。
存在しないものにあえて名前をつけようと試みる上野先生の姿勢は、研究者の原点だと思います。
あのスピーチをした後に東大法学部三年の学生が私のところにやって来て、「先生は高等教育の役割は「メタ知識」を身につけることとおっしゃいましたが、いま僕らの受けている教育が、そんな教育とは思えません」と言ってきました。
何とも率直な訴えではないですか(笑)。
私は彼にこう返しました。「はい、そのとおりです」と(笑)。残念ながらいまの高等教育は、「メタ知識」を身につける役割を果たせているとは思えません。それで思ったのは、いろんな分野の知識を横断的に学べるリべラルアーツは、見たことのない知を生み出すための一つの装置ではないか、ということです。
装置が機能するためには、多くの蓄積が必要ですね。
もちろんです。
私は哲学や神学という古い学問系なので、大学教育で新たな知を創造するのは、簡単ではないと思っています。じつのところ、ほとんどの学生は既存の知を一所懸命に学んで、自分の知性を耕すことで、新しいように見える薄い一枚の皮をつくるのがやっとでしょう。
おっしゃることはよくわかります。が、現実の変化が学問を追い抜いていきます。そんな状況のなか、いかにして新たな知を生み出すか。情報工学には「情報とはノイズが転化したものである」という命題がありますが、私はこの言葉がとても腑に落ちました。ノイズなきところに情報は生まれません。ではノイズはどこで発生するかといえば、システム間の落差から発生します。ドイツの社会学者ニクラス・ルーマンは、「システムとはノイズの縮減装置」だと言いました。
ノイズが小さくなったほうがスムーズで、考える必要がなくなりますからね。
ええ。言い換えればシステムとは、物事をルーティン化することでノイズの発生を抑制する装置なのです。裏を返せば、システムにどっふり浸かっていたらノイズが生まれず、情報はつくられないし、知の創造もありません。
森本 あんり著 「教養を深める」より
上野さんはネット上の記事で次のように話されてます。
・・・そのノイズとは、なぜ、どうして、変だ、おかしい、ムカつく、もやもやするというひっかかりのことです。
中略
学問とは、このような違和感に言語を与えて、エビデンスを示し、論理を立ててそれを説明するものです。・・・
これを読んで、ずいぶん前に読んだ小説の選評にこうあったのを思い出した。
「日々の強固な連続性の中にあって、軌道の修正を可能にするものは、大きな動機ではなく小さな違和感にこそある」