夜、電子レンジを買いに行く

おとといの昼、弁当を電子レンジでチンしようとしたら味噌汁はOKだったのだけど続けてご飯を温めようとしたらレンジがウンともスンとも言わない。こういう場合、叩くと生き返ることがあるので2~3発お見舞いしてやったが沈黙したまま。仕方なく冷たい弁当を食べることにしたのだけど、心まで冷えそうな冷たさだったので先に温めた味噌汁をかけて食べることにした。食べた後、とりあえず中を見てみようとカバーを外したところ、スイッチにひびが入っているのを発見。汎用のスイッチだったら取り替えようかな、と考えるのだが、専用に作られた変なスイッチだったのであきらめることにした。冬に冷たい弁当を食べるのは実に不幸なことだ。というわけで、さっそく熱帯雨林で調べたのだけど、すぐに届く安いレンジが見つからない。仕方がないので近くの電気屋で買うことにした。仕事帰りに寄って、店員に、一番安い電子レンジをください、というと、これだった。6980円。見た目も操作感も昭和風でなかなかいい。親しみが持てる。

12月

朝、ラジオを聞いてたら、あの曲が。

雨は夜更け過ぎに雪へと変わるだろう

1983年。そんなに前だったとは

キー・オブ・ライフ

昼前にコーヒーを買いにいらしたお客さんと本の話をしてたら、この本がおもしろかったよ、と言われ、なんだか興味がわいてきて、夜、近くの本屋で購入。ぼくはいま別の本を読んでいるので、この本は久しぶりに家に帰ってきていた息子に上げた。今読んでる本を読み終わったら自分用を買うつもり。

3時ごろ夫婦でやってきたR氏。彼は自然の法則に従って年を取っていく。だが、奥様はほとんど年を取らない。ように見える。信じられないことだが、彼女はまだ老眼になってないという。

キルケゴール的転回

やっと秋らしくなってきた。暑さでスカスカになっていたアタマも少しばかり冴えてきて、何か面白そうな本があったら読もうかな、って気分。そこで池澤夏樹の「小説の羅針盤」という本を手に取った。いわく、「上田秋成、森鴎外からピンチョン、カーヴァー、山田詠美まで、ぼくが好きな作家や詩人や思想家を自分のまわりに並べてみた。希代の読み手でもある著者が、15人の作家の本質を鮮やかに軽やかに突く。読書欲を倍増させる一冊」とのこと。この本自体、軽快なエッセーで楽しめるのだが、ぼくの目的は彼の解説を手掛かりに普段目に留めないような本を読んでみよう、ってことなのだ。さっそく、キルケゴールの「死にいたる病」という、よほどのことがない限り死ぬまで読むことはなかろう、という本の解説を読んでみる。いきなりこんな出だしで始まる。


何の先入観も予備知識もないままに「死にいたる病」を読もうとする者は相当の困難を覚悟しなくてはならない。これは哲学の素人であるぼくがそれを試み、強引に読んだつもりになって書いた小文であり、それ以上ではない。ぼくはときに著者の論理をたどたどしく追い、ときには百年も後の別の哲学者を引き合いに出して、なんとかこれを理解しようと試みた。なかなかむずかしいことだった。


なるほど。しかし、後に続く彼の解説を読んでいくうちに、なんだか読んでみたくなった。というわけで、さっそく電子書籍ストアからダウンロードして読み始める。想定していたより読みにくい。すいすい読めるところもあるが、大半は何のことやらわからない。それでも1265円もした本なので簡単にはあきらめきれず、行きつ戻りつしながら前進していく。そしてぼくなりに分かったことがある。キルケゴールは限りなく重大なことを、まさに目の前の読者、ほかでもない、このぼくに伝えようとしている。しかしそれはコペルニクス的転回をはるかに上回る次元の事柄で、日本に限って言えばおそらく98%の読者には理解できない。その理由の一つがこの本が教化を目的として書かれていることにあって、98%の読者には彼の企図するところの教化によるパラダイムシフトが成功しない限り、この本は頭の体操程度にしか役に立てない

黄昏の二人

ぼく : ぼくたちの年を一日の時間で表すと夜だろうね、日はとっくに沈んでる。

客(推定年齢80) : いや、まだ沈んでない。山の上で輝いている!

平凡な一日

早朝4時15分。北東の低い空、北斗七星の右下に見えたレモン彗星。月明りと朝モヤのせいで肉眼では全く見えない。

午前中、ヨッパライ某と娘を連れてヨッパライ某の母のいる施設を訪問。そのあと娘をJR駅に送り、ヨッパライ某は映画「国宝」を見に出かけ、ぼくは家にこもって新しいパソコンのセットアップ。なんだか平凡な一日であった。
写真は横浜美少女からもらったナポリタンレトルトを使って作ったナポリタン。懐かしい昭和の味でした。