せりふのない一日

070604_02
昨日は定休日だったのでドライブに出かけた。南に一時間も走ると、そこは大きな植物園。そこには、赤い花や白い花、青い花が咲いていたが、その日ぼくはそれを言葉にするのをやめてみた。言葉にするのをやめると、赤い花は赤い花であることをやめる。白いアジサイも同じだ。そんなことが簡単にできるもんか、と思う方もいるだろうけど、ぼくはできる。といっても、ゲシュタルト崩壊を応用しているだけのことだ。070604_01ぼくは頻々として起こるゲシュタルト崩壊に悩まされていたのだけど、おかげでその状況をある程度フィードバックできるようになった。フィードバックできるということはコントロールできるということ。抽象化をやめると世界は一変してしまう。エネルギーが渦巻く引力と斥力のリアル世界だ。

“せりふのない一日” への2件の返信

  1. 鮮やかな赤い花 可憐な白い花
    そう表現するのは安易であっても
    私は 自然な世界に触れるときはあえて素直にそれを受け止めたいです
    人などとの交わりは複雑で迷いの連続で
    疑念と存在意味 帰属意識に悩まされますけどね
    うまく波に乗れないときは次の波に乗ればよいのだし・・・
    と最近思えるようになりました
    ちょっと成長しましたか?

  2. こんにちは、うさぎさん。
    ん? 午前3時の投稿ですか。
    そういえば月が南の空で輝いてたのもその頃だったなぁ。
    >自然な世界に触れるときはあえて素直にそれを受け止めたいです。
    そーかー、それはたぶん、今の自分を認め、愛するってことなんだろうな~。自分の受けとめた世界を否定することは今の自分を否定することになりかねない。世界は認識することで生じてますから、自分が変われば世界も変わってしまう。つまり、世界は自分の内側にあるんですね。だから波に乗れないときは、自分で波をつくることも可能なんですよ。まさに映画マトリックスですね。そういえば救世主(ネオ)を探すヒントは、うさぎさんでした(笑)

コメントは受け付けていません。