数日前に読んだ本の森本あんりさんと上野千鶴子さんの対談が興味を引いたので、以下、備忘として
日本の大学は「メタ知識」を生み出せていない
上野先生と言えば、二〇一九年度の東京大学入学式での祝辞が話題を呼びましたよね。知の創造性や多様性の価値など、これから学問に向き合う学生たちにふさわしいお話だと、私も感銘を受けました。
ありがとうございます。スピーチでは、まだ見たことのない知を生み出すための知を「メタ知識」と呼ぼうと訴えたのですが、じつは私自身、この名称がいまだにしっくりきていないんですよね(笑)。心理学には「メタ認知」という概念がありますが、それとは違います。
「メタ知識」とは、既存の知識の枠組みを飛び越える一段高次元の知のことですよね。
ええ。かと言って、ノウハウやスキルといった言葉を使うと、どこか軽く聞こえてしまいますし。
存在しないものにあえて名前をつけようと試みる上野先生の姿勢は、研究者の原点だと思います。
あのスピーチをした後に東大法学部三年の学生が私のところにやって来て、「先生は高等教育の役割は「メタ知識」を身につけることとおっしゃいましたが、いま僕らの受けている教育が、そんな教育とは思えません」と言ってきました。
何とも率直な訴えではないですか(笑)。
私は彼にこう返しました。「はい、そのとおりです」と(笑)。残念ながらいまの高等教育は、「メタ知識」を身につける役割を果たせているとは思えません。それで思ったのは、いろんな分野の知識を横断的に学べるリべラルアーツは、見たことのない知を生み出すための一つの装置ではないか、ということです。
装置が機能するためには、多くの蓄積が必要ですね。
もちろんです。
私は哲学や神学という古い学問系なので、大学教育で新たな知を創造するのは、簡単ではないと思っています。じつのところ、ほとんどの学生は既存の知を一所懸命に学んで、自分の知性を耕すことで、新しいように見える薄い一枚の皮をつくるのがやっとでしょう。
おっしゃることはよくわかります。が、現実の変化が学問を追い抜いていきます。そんな状況のなか、いかにして新たな知を生み出すか。情報工学には「情報とはノイズが転化したものである」という命題がありますが、私はこの言葉がとても腑に落ちました。ノイズなきところに情報は生まれません。ではノイズはどこで発生するかといえば、システム間の落差から発生します。ドイツの社会学者ニクラス・ルーマンは、「システムとはノイズの縮減装置」だと言いました。
ノイズが小さくなったほうがスムーズで、考える必要がなくなりますからね。
ええ。言い換えればシステムとは、物事をルーティン化することでノイズの発生を抑制する装置なのです。裏を返せば、システムにどっふり浸かっていたらノイズが生まれず、情報はつくられないし、知の創造もありません。
森本 あんり著 「教養を深める」より
上野さんはネット上の記事で次のように話されてます。
・・・そのノイズとは、なぜ、どうして、変だ、おかしい、ムカつく、もやもやするというひっかかりのことです。
中略
学問とは、このような違和感に言語を与えて、エビデンスを示し、論理を立ててそれを説明するものです。・・・
これを読んで、ずいぶん前に読んだ小説の選評にこうあったのを思い出した。
「日々の強固な連続性の中にあって、軌道の修正を可能にするものは、大きな動機ではなく小さな違和感にこそある」