夕食のおかずの一つがヨッパライ某の発案による、一見、揚げ出し豆腐風、ミゾレあんかけキンツバ豆腐(←ぼくが命名)であったが、どうやら思った通りにできなかったらしく、ほんとはこういう風になるはずだったのに、という長い説明を聞かされつつ食べたが、ぼく的にはこれはこれで完成度は高いと思ったのでそう伝えたけれど納得できない様子であった。説明が一段落ついたところで、今日は常連のお客さんとこんな話をしたよ、とぼくは切り出した。そのお客さんの趣味が音楽鑑賞と写真なので、話題がその辺に集中することは多いのだけど、今日は朝からバッハのマタイ受難曲を聞いていたせいもあって、いつの間にかその受難曲の話になった。お客さんは主に小編成の室内楽を真空管アンプ(300Bの)とタンノイのフロアスピーカーで聞いていらっしゃる。以前、ご自宅に招かれた時、リュートによる優雅な室内楽でぼくを迎えてくださったのは忘れられない思い出となった。器楽曲が好みと聞いていたので、マタイ受難曲を鑑賞することはあまりないだろうと思っていたのだけど、レコードは持っておられるとのこと。でも、奥様が重苦しい音楽が好きでないそうで、このレコードをかけることはほとんどないとのことだった。ちなみにこの曲の出だしは正に重苦しい。なぜなら十字架を背負ったイエスを先頭にしての刑場ゴルゴタへの行進の情景から始まるのだから。
礒山雅(著)「マタイ受難曲」によれば
深沈とした、管弦楽の前奏。17小節目から満を持したように湧き上がる、悲痛な合唱。《マタイ受難曲》といえば誰でも、このすばらしい開曲のことを想起せずにはいられないだろう。この冒頭がわれわれの《マタイ》に対するイメージを規定しているのも、理由のないことではない。なぜなら、《マタイ受難曲》の開曲は、それまでの受難曲にほとんど前例のないほど、大胆なものだからである。
という話をヨッパライ某に話したところ、意外にも興味をそそられたらしく、「それ、私も聞いたことがあるかな?」と言い出した。「たぶん、ないと思う」というと、スマホを取り出し、検索して聞こうとしたので、テレビのスイッチを入れ、Youtubeでカールリヒター指揮のマタイ受難曲を呼び出した。彼女は真剣に聞いていたが、冒頭の合唱が終わると、「もういいかな」と言ったので、ぼくはテレビを消した