男たちは自分の中にある永遠の女性像を目の前の女性に投影してそれを追いかける。でもそれは幻だから追っても追っても逃げ水のように遠ざかってしまう。ユングの言うアニマがそれだ。昨日、青空に向かって山道を走ってると、カーオーディオから沢田研二の「コバルトの季節の中で」が流れはじめた。ぼくはとなりの女性にそのイメージを重ねることができる。現実と幻の境界を意識できるから。
「コバルトの季節の中に」の女性と、大瀧詠一の「ペパーミントブルー」の女性は男にとって幻の女性だ。畢竟、人生は幻なのか。フェルナンド・ペソアは次のように書いている。
人生を生きよ。人生によって生きられるな。真理にあっても誤謬にあっても、快楽にあっても倦怠にあっても、本当の自分自身であれ。それは夢みることによってしか到達できない。なぜなら現実生活は、世間の生活は、自分自身に属しているどころか、他人のものであるからだ。だから、人生を夢で置き換え、完璧に夢みることのみに腐心せよ。生まれることから死ぬことに至るまで、現実生活のどんな行為も、本当に行動しているのは自分ではない。動かされているのだ。生きているのではなく、生きられているのだ。