ロマンチストは やめられない

先日「かごしまタラソニュース」を発行しているYさんからこんなメールが届いた。

「かごしまタラソニュースを購読されている複数の読者から、長島さんはとてもロマンチストなんですね。文章を興味深く読ませていただきました、との声が寄せられました」と。

少し前ブログに書いたのだけど、ぼくはタラソニュースに「私と海」という題のエッセイを書いた。それを読んだ読者から、これを書いた人はヘビー級のロマンチストですね、との感想が届いたという。
やれやれ、またか。ぼくはメールを読んで思った。数日前もある女性に「あなたってロマンチストね」と言われたばかり。ぼくのことをロマンチストと呼ぶ人はとても多い。特に女性たちからは。ぼくが勝手にそう思っているだけなのだろうけど、ロマンチスト、という響きにはどこか現実逃避的な、あるいは星菫派の詩人よろしく感傷的な世界に耽って閉じこもっている偏屈者、といったイメージが重なる。そう、決して褒められているようには思えない。確かにぼくはロマンチストだ。しかし、世のロマンチストたちがきっとそう思っているように、ロマンチストはやめられない。ずっとロマンチストでいたい。(もちろん、やめようと思って止められるものでもない)
ぼくの書いた「私と海」に、レイチェル・カーソンのセンス・オブ・ワンダーの一節を引用したが、その巻末には次のような一文がある。

わたしは、スウェーデンのすぐれた海洋学者であるオットー・ペテルソンのことをよく思い出します。彼は九十三歳で世を去りましたが、最後まで彼のはつらつとした精神力は失われませんでした。彼の息子もまた世界的に名の知られた海洋学者ですが、最近出版された著作の中で、彼の父親が、自分のまわりの世界でなにか新しい発見や経験をするたびに、それをいかに楽しんでいたかを述べています。「父は、どうしようもないロマンチストでした。生命と宇宙の神秘をかぎりなく愛していました」オットー・ペテルソンは、地球上の景色をもうそんなに長くは楽しめないと悟ったとき、息子にこう語りました。「死に臨んだとき、私の最後の瞬間を支えてくれるのは、この先に何があるのだろうかというかぎりない好奇心だろうね」と。