きたぐにの禿山に
ひとり立つ松の木は
むなしくも眠り入る
氷雪におほはれて
夢に見る東方の
はるかなる椰子の木も
かなしげにひとり立つ
灼熱の絶壁に
ハイネ全詩集1(井上正蔵訳)
異なる言語の話し手が、それぞれの母語のあり方ゆえに、同じひとつの現実を違うやり方で知覚することがありうるか。
たとえば、第8章 女性名詞の「スプーン」は女らしい?という章で、書き手はこんな事を述べる。
・・・ しかし、文法的ジェンダーが合理的思考の能力を制約しないのが事実であっても、ジェンダーを持つ言語を母語とする者にとって、状況がある意味で厳しいことに変わりはない。ジェンダー体系は牢獄に近いものになりうるからである—連想の牢獄だ。母語のジェンダーに押しつけられた連想という鎖をふりすてるのはまず不可能である。しかし、英語を母語とする読者が、不合理なジェンダー体系という重荷から逃れられない私たちに同情する気になったとしたら、考えなおしたほうがいい。私はあなたと代わりたいなどと金輪際思わないだろう。私の心は恣意的で非論理的な連想という重荷を背負っているかもしれないが、そのおかげで私の世界は、あなたには想像もつかないほど豊かなのだ。あなたの「it」しか存在しない砂漠に比べて、私の言語の地平はなんと肥沃なことか。ジェンダーが言語から詩人への贈り物であることは言うまでもない。ハイネの男性名詞の松の木は、女性名詞の椰子に恋い焦がれる。・・・
残念ながらジェンダー体系を持たない日本語を母語とするぼくには、ハイネの詩の本当のすばらしさを実感として得ることはできない。そしておそらく文学作品に限らず、ジェンダーを持つ言語を母語とする音楽家、画家の作品から放たれる、その豊かなコントラストも、心の深みで捉えることができない。ううう、な、なんて悲しい・・・かも
“女性名詞の「スプーン」は女らしい?” への4件の返信
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日本語を英語に訳したときのあっさり感。そんな感じですかね。この英訳では物足りないとおもう日本人は多いはず。だから、日本人は英語が苦手なのかな?
今日はずいぶんとゆっくりと過ごさせていただき、独身時代にもどったような気分でした。おしゃべりしすぎで、うるさくなかったかな?また、伺います。おいしいコーヒーありがとうございました[E:#x1F60A]
日本語を英語に訳したときのあっさり感。なるほど、それに近い感じかもしれないですね。納豆からヌメリを取ってしまったような。ところで今日は独身のように見えましたよ。あの頃が懐かしいですね(笑)
昔、30、40年前、鈴木孝夫という言語学者がこの手の本を色々と書いていたことを思い出します。どうやら、そういう話題を緻密に展開した本のようですね。読んでみたいです。この本は英語のようですが、著者はイスラエル人のようですね。つまりヘブライ語が母語。ヘブライ語ではスプーンは女性名詞のようですね。フランス語でも女性名詞です(une cuillere)。でもドイツ語(ein Loffel)でもイタリア語(il cucchiaio)でも男性名詞。連想の牢獄には違いないでしょうが、恣意的とも言えますね。それほど羨むことはないかも。
「言語が違えば、世界も違って見えるわけ」という、おもしろそうな表題に引かれ、思わずamazonでポチろうとしたところ、なんと2500円もしたので図書館で借りました。おもしろい本です。言語が違えば「世界も違って見える」わけ、という言い方は示唆的ですね。その言語を母語とする本人にとっては、違って見えているその世界が疑うべくもない現実の世界でしょうから。人間にとって世界とは何なんでしょう。それにしてもこの分野、いまだにブラックボックス状態なんですね。ほとんど手探りに近いやり方で究明中らしいです。ちょっとあきれました。