素敵な色合いのお写真ですね。 丁度一年前くらいにも、スプーンさんはアカシアについて書いていらっしゃいました。 その文章の一部は、わたしのブログに刻ませていただきました。ほんとうに当時のわたしには、深く刻まれた言葉だったのです。 サンテグジュペリの言葉には納得です。そうあるべきだと想います。ですが、どうしてでしょう。時にわたしは、自身も見て欲しいと想ってしまうのです。これは欲深いことなのでしょうか。わたしは恋愛に悩んでいるわけではありません。もっと深い生きること自体に悩んでいます。スプーンさんの言葉は、時にわたしに深く突き刺さり、胸が苦しくなります。わたしは、あえて、そういうものを求めてここにやってくるのかもしれません。 スプーンさんのブログを楽しんでいらっしゃる皆様、こんな書き込みでごめんなさい。お許しください。
うまく説明できるか分かりませんが、書いてみます。ぼくの独善で書きますから、あまり深く考えないようにお願いします(笑) 自分を器に例えてみると分かりやすいかもしれません。器というのは外と中を隔てる壁によってその役目を果たしてます。その壁とは、人には親切に、女らしくしよう、いつも笑顔で、欲深は悪い、こんな人間にはなりたくない、というような、自分を自分として保つためのルールや価値観の集合体のようなものです。そのような、その人独自のルールや価値観から成り立つ器に、かけがえのない命(魂)が入ってます。壁は社会において命を守ってくれるのですが、同時に命を孤独にするのです。揺羅さんの文章を読んでますと、とてもすてきな器、理想的な壁を作り上げようと努力しているように感じられます。でも、揺羅さんのおっしゃる「自身も見て欲しい」という欲望は、相手が自分と同じように壁の中にある命である限り、達成不可能なことだと思います。もしそれが叶ったように思えても、それは錯覚かもしれません。どのように作り上げても壁は壁なのです。もちろんそれは揺羅さんに限ったことではありません、だれもがそうだし、ぼくもそうです。一方、世の中には壁の薄い人たちはいます。つまり、心のままに行動する人たちです。ドストエフスキーの作品の中に、よく白痴の人が登場しますが、この人たちがそれです。それと幼い子供。人と人が向き合って見えてくるのは、そのほとんどが自分の壁です。命はなかなか見えません。でも心配はいりません。いま、揺羅さんは細い山道を登りきり、峠の向こうに広がる世界が見え始めようとしているところです。あわてることはありません。時が来れば、きっと何かを感じるようになるでしょうから。無責任な思いつきをだらだら書きましたが、何か、ヒントにでもなればと思います。というわけで、なんだか人生相談風の文章になっちゃいました(笑) P.S. 読み返してみて書き間違いに気づいたので訂正しました。 人と人が向き合って見えてくるのは、そのほとんどが相手の壁です。を 人と人が向き合って見えてくるのは、そのほとんどが自分の壁です。に訂正しました。問題は見る側にある、ということです。 揺羅さんがまっすぐ問題と対峙している限り、いずれ出口は見えてくるのだと信じています。孫引きですが、デカルトという学者がこんなことを言っているようです。 まず一歩をふみだし、歩いていくことだ。デカルトは思考の確率のひとつとして、森の中で迷った旅人の例をあげ、一ヶ所にとまっていたり、あちこちとさまよい歩いたりしてはならず、たえず同じ方向へと歩き続けなければならない、といっている。 (矢内原伊作「歩き初め」より)
それとなく、chikakoさんが本をご紹介くださって感謝しています。しかし申し訳ないことに、わたしは小説の類は読まないことにしています。むしろわたしに必要なのは、哲学書や心理学書だと感じています。 スプーンさんに惹かれるのは、考え方にとても共鳴する部分と本当にそうなのだろうかと想う部分があるからです。今回の魂の器もそのふたつの面を感じました。生意気と想いますが、わたしの考えを書かせてください。 魂は器の中にあると、わたしも想います。しかしその器は、出来る限り薄く浅くあった方が幸せに想います。そのほうが、誰かに出会ったときに楽しい旅が出来るのです。(楽しい旅とは、22日の記事のコメントにあったもの) またそれとは別にこんなことも考えています。スプーンさんは器と表現していましたが、わたしは普段衣と表現しているので、ここでは衣を使わせていただきますが、 わたしたちは生まれたとき、ピュアな魂だけの存在なのです。生きてゆく過程において、外部から多くの刺激を受け衣を身にまとい始めます。幾枚も幾枚もまとってゆくのです。その中である時、ある衝撃的事実を確信し、さらに受け入れることができると、その人間は、衣を脱ぎ始めるのです。一枚一枚。そして最後には全て脱ぎ捨て魂だけになる。そして終わります。しかし、終わりは始まりでもあります。終わりにたどり着くその時に最後の一枚を脱ぎ捨て、生まれてきたときのピュアな魂になりたいと考えています。わたしは今を生きながら、この衣を一枚ずつ脱ごうとしています。それはとても困難を要し、また孤独な作業です。だからといって、脱ぎ捨てた衣をもう一度まとうことはできません。デカルトの言うように一方向に進むことしかできないからです。このような考え方のわたしを受け入れる人は、わたしの周りには居ません。みんな、お前は頭がおかしいと言います。そうなのかも知れない。人を知ろうとすればするほど、自分の壁(器)に自分を見ることになるとすれば、やはり生きてゆくのは辛いものだと感じざるを得ません。
こんばんは。揺羅さんは、自分を含めたこの世界の仕組みに、何か言葉にしにくい違和感を常に感じていらっしゃって、どうして他の人たちは、それを感じないのだろう、と、不思議がり、苛立っているのではないでしょうか。それはたぶん、ほかの人が持たない、あるいは邪魔になって引っ込めてしまった感性のアンテナを、揺羅さんが伸ばしたままにしているからだと思います。つまり、揺羅さんに聞こえてくるメッセージは、ほかの人には聞こえないのです(もちろん幻覚のことを言っているのではありませんので念のため)。こんな風に書くと、奇異な感じがするかもしれませんが、特別不思議なことじゃないとぼくは思います。揺羅さんのコメントを読むと、苦しいからでしょうか、ずいぶん性急な感じがします。哲学書や心理学書を読むことで、すぐに納得のいく答えが得られるかは、ぼくにはわかりません。ぼくは哲学書や心理学書はほとんど読んだことがありませんし。でも、哲学書ではないのですが、たとえばドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟という小説は、ぼくにはすばらしい哲学書に思えました。哲学とは、おそらく究極的には、人間とは何か、を解明しようとする学問だと思えるのですが、カラマーゾフの兄弟はまさに、そのために書かれた作品なのではないかと思えるのです。どう考えても、ある特定の目的を成就するために必然的に作られたのだとしか思えない、際立ったキャラクターたちが、無駄なく有機的に絡み合いながら物語を進行させていきます。そして読み進むうちに、ある一つのイメージが、読み手の中に、あぶり出しのように現れてくる。ドストエフスキーの意図はそこにあるのだとしかぼくには思えませんでした。揺羅さんは、小説は読まない、と書いておられますが、もしかすると、揺羅さんと同じ感性を持った人が同じ悩みを抱え、書かずにいられなくなって書いた作品があるかもしれませんよ。似たような感性を持つ人の話をきくのが最も手っ取り早い解決法のような気もするのですが。もしお時間がありましたら、そのような小説をさがして読んでみてはいかがでしょう。ぼくはそうしています。というか、ぼくの好きな作家は、ぼくと感性が似ている人です。 なお、衣の件ついては、ぼくは基本的に揺羅さんと同じ考えです。でも、それを脱ごうとはいささかも思いません。社会で生きていくうえでチョー便利ですし、必要不可欠だと思います。揺羅さんは若いから、潔く脱いじゃえ、と思うのでしょうね。でも、それはインドの山奥あたりで毎日瞑想にふけり、いわゆる悟り、みたいなものでも得なければ無理じゃないかと思います。詳しくは分かりませんけど。そこで、ぼくみたいに歳をとってくると、老獪な戦術でお茶を濁そうと考えるようになるわけです(笑) この衣が、ほころびだらけで、どうしようもなく不完全な欠陥商品だということは認識しています。肝心なのは、それを承知の上で使うことでしょう。
コメントをありがとうございます。カラマーゾフの兄弟は、読んでみます。 わたしは若くはありません。わたしはこれまでふらふらしていて三度も職を変わって生活していました。研究職、教育現場、商社。全ての場所に尊敬すべき人が居て、可愛がってもらい、社会の厳しさも矛盾も人並みに経験してきました。もちろん自分を取り巻く世界に違和感や不思議や苛立ちを感じた頃もありました。でも今はそれを過ぎました。うまくこの社会を渡ってゆくためには、衣は脱がずに、時には肌蹴てみたり、着ていないふりをするのが、賢い大人と言えることも理解しています。でもそれなら、スプーンさんのおっしゃる会話は旅というものは、なんなのか。オーバーを着ているわたしが、Tシャツの人に「今日は暑いですね」と言っている感じがして気持ち悪いです。共感持てそうにない人に、自分のことは話せない。ですよね。わたしは、スプーンさんは、すでに余分な衣を脱いでいると感じていたのです。衣は、脱ぐべき衣と脱がなくてよい衣があるのかもしれないし、生涯着た衣を一枚も脱がない人もいると想います。しかしわたしたちは、どんなに立派な壁や器や衣を持ったとしても、いずれは死んでしまうのです。魂自体を磨かなければ、意味がないのかなと想ったりします。出会った人と会話して、自分の知らない世界を子どもの様に薄着で旅するほうが、ずっとずっと豊かになれると想うのですが。スプーンさんのような大人な方と話をすると勉強になります。スプーンさんの指摘に、わたしってそうなのかもしれないと想うこと度々だからです。ありがとうございました。皆さまにも感謝。
揺羅さん、こんばんは ぼくが書いた昨日のコメントの後半部分、誤解されるかもしれないな、と思いながら書いたのでしたが、やはりそうなったようですね。文章を軽くしようと思って、ちょっと冗談ぽく書いたのですが、それはまずかったようです。衣を脱ごうとは思わないのは、ぼくには脱げないことが分かっているからです。衣を脱ぐことはできないですが、それを薄くする方法として、瞑想があると思います。よく、無我の境地といいますが、「無我」が、衣を脱いだ状態に一番近いと思います。ぼくの想像ですが、高度な無我を体験すると、価値観が一変してしまい、それまでの自分が馬鹿らしくなって、もしかすると現在の仕事も辞めてしまうかもしれません。それほどのことが起きるのだと思います。実は友人がそうなって、チベットに旅立っていきました。今は戻ってきてますけど。本物の幸せのために、偽物だらけの今の幸せを捨てられるか。今のぼくには無理そうです。そこでぼくは、衣を脱ぐことはしないけれど、その衣に対して慎重であろうと心がけているわけです。ずるいけど、衣を脱いだのに近い状態を手軽に手に入れようと、研究中なのです。たとえば、自然と一体化しようと、植物の中を散歩している時など、いつも無我の境地になろうと努力はしているのです。周りの人たちは、変なやつだと思っているようですが、当人は大真面目です。その状態に近づくと、理屈や、考えみたいなものがなくなってきます。そのとき、ぼくは自然に向き合っているのではなく、一体化し、同じ方向を見ているような気分になるのです。なぜそういうことをしつこくやっているかというと、むかし、そういう状態に近い体験を一度しているからです。その体験が忘れられないのです。ぼくはそのときを境に変わってしまったような気がします。だから、サンテグジュペリの言う、同じ方向を見る、という感じが少し分かるのです。うまく説明したいのですが、経験したことのない人にそのイメージを伝えるのはとても難しいです。とにかく、向き合っているときには、そういう感じには程遠いのです。ほんと、うまくいえませんね。すみません。 もし、ぼくのコメントによって、揺羅さんが傷ついたり、不快に思うようなことがあれば深くお詫びします。こういう変わった考えもあるんだな、と、読み流していただければと思います。
こんばんは。こちらこそ、誤解をさせるような結び方になってしまって、ごめんなさい。ちゃんと分かっています。スプーンさんのおっしゃることは正論ですしね。本当にわたしは悟りを開くために尼さんになりたいと言って、友達に止められたくらいですから。わたしの言っていることは、インドの山奥にでも行かない限り無理な話なんです。せいぜいできることは、衣を出来る限り薄くすることですよね。必要最低限あればいいと思います。 自然の中で瞑想するのは、素敵ですね。わたしはスキーが大好きでよく山に行っていました。2月は日中でも-15℃位です。晴れた日はダイヤモンドダストや霧氷が美しいですが、吹雪くこともあって顔が凍傷になったりします。自然は人間を遥かに超えて、美しく厳しいなと感じます。それはもう身が洗われるような神々しさです。どんなに頑張っても、人間はこれに及ばないと感じます。これがわたしの無我の境地かもしれません。極寒で余計な思考が止まるところが良いのかも知れません。 わたしの知っている人にもインドにいってしまった人がいました。同じ人だったりして。カラマーゾフの兄弟は岩波のを注文しました。きっとわたしとスプーンさんは同じ方向を見ようとしている人種なのです。スプーンさんはわたしに、いつもテーマとヒントを与えてくださいます。そしてそのタイミングが、いつもドンピシャなのです。それがいつも不思議でたまりません。心から感謝しています。ありがとうございます♪
北に旅立った南国犬です.ご無沙汰しています. こちらはまだ雪が降ったりします. でも,偶然同じような時にミモザ・アカシアを買いました. この花はこの時期に実家の庭に咲き,春を感じさせてくれる特別な花です. 枝を春の海に持って行き,濃い青色と花の黄色のコントラストを楽しみました. スプーンさんの写真も光の入り方と青い花瓶の色合いと花のボリュームが気持ちの良いバランスですね. 花屋の感じのいいお姉さんが,お花が元気なうちに押し花にしてお手紙に入れると喜ばれますよ,と教えてくれました.
☆揺羅さん、こんにちは 揺羅さんと何度もコメントのやり取りをしていて、ぼく自身、ああ、やはり、愛するとは向き合うのではなく、いっしょに同じ方向を見ることだなと再び思いました。いっしょに同じ方向を見ることは、自分を忘れて一つになることなんだと。それが愛することなんだな、と。ほんとにこちらこそありがとうございました。 ☆南国犬さん、おひさしぶりです、お元気でしょうか。 アカシアの黄色と甘酸っぱい香りは、忘れてしまった大事な何かを思い出しそうで、つい何度も振り返ってしまいます。写真の花瓶、いい色でしょ? 海のようで。この花瓶に活けてみると、アカシアも喜んでいるように感じらました。ところで、今月、北海道に旅する予定です。阿寒湖、摩周湖あたり。初めてなので、どういうところなのか見当もつきません(笑)
素敵な色合いのお写真ですね。
丁度一年前くらいにも、スプーンさんはアカシアについて書いていらっしゃいました。
その文章の一部は、わたしのブログに刻ませていただきました。ほんとうに当時のわたしには、深く刻まれた言葉だったのです。
サンテグジュペリの言葉には納得です。そうあるべきだと想います。ですが、どうしてでしょう。時にわたしは、自身も見て欲しいと想ってしまうのです。これは欲深いことなのでしょうか。わたしは恋愛に悩んでいるわけではありません。もっと深い生きること自体に悩んでいます。スプーンさんの言葉は、時にわたしに深く突き刺さり、胸が苦しくなります。わたしは、あえて、そういうものを求めてここにやってくるのかもしれません。
スプーンさんのブログを楽しんでいらっしゃる皆様、こんな書き込みでごめんなさい。お許しください。
うまく説明できるか分かりませんが、書いてみます。ぼくの独善で書きますから、あまり深く考えないようにお願いします(笑)
自分を器に例えてみると分かりやすいかもしれません。器というのは外と中を隔てる壁によってその役目を果たしてます。その壁とは、人には親切に、女らしくしよう、いつも笑顔で、欲深は悪い、こんな人間にはなりたくない、というような、自分を自分として保つためのルールや価値観の集合体のようなものです。そのような、その人独自のルールや価値観から成り立つ器に、かけがえのない命(魂)が入ってます。壁は社会において命を守ってくれるのですが、同時に命を孤独にするのです。揺羅さんの文章を読んでますと、とてもすてきな器、理想的な壁を作り上げようと努力しているように感じられます。でも、揺羅さんのおっしゃる「自身も見て欲しい」という欲望は、相手が自分と同じように壁の中にある命である限り、達成不可能なことだと思います。もしそれが叶ったように思えても、それは錯覚かもしれません。どのように作り上げても壁は壁なのです。もちろんそれは揺羅さんに限ったことではありません、だれもがそうだし、ぼくもそうです。一方、世の中には壁の薄い人たちはいます。つまり、心のままに行動する人たちです。ドストエフスキーの作品の中に、よく白痴の人が登場しますが、この人たちがそれです。それと幼い子供。人と人が向き合って見えてくるのは、そのほとんどが自分の壁です。命はなかなか見えません。でも心配はいりません。いま、揺羅さんは細い山道を登りきり、峠の向こうに広がる世界が見え始めようとしているところです。あわてることはありません。時が来れば、きっと何かを感じるようになるでしょうから。無責任な思いつきをだらだら書きましたが、何か、ヒントにでもなればと思います。というわけで、なんだか人生相談風の文章になっちゃいました(笑)
P.S.
読み返してみて書き間違いに気づいたので訂正しました。
人と人が向き合って見えてくるのは、そのほとんどが相手の壁です。を
人と人が向き合って見えてくるのは、そのほとんどが自分の壁です。に訂正しました。問題は見る側にある、ということです。
揺羅さんがまっすぐ問題と対峙している限り、いずれ出口は見えてくるのだと信じています。孫引きですが、デカルトという学者がこんなことを言っているようです。
まず一歩をふみだし、歩いていくことだ。デカルトは思考の確率のひとつとして、森の中で迷った旅人の例をあげ、一ヶ所にとまっていたり、あちこちとさまよい歩いたりしてはならず、たえず同じ方向へと歩き続けなければならない、といっている。
(矢内原伊作「歩き初め」より)
それとなく、chikakoさんが本をご紹介くださって感謝しています。しかし申し訳ないことに、わたしは小説の類は読まないことにしています。むしろわたしに必要なのは、哲学書や心理学書だと感じています。
スプーンさんに惹かれるのは、考え方にとても共鳴する部分と本当にそうなのだろうかと想う部分があるからです。今回の魂の器もそのふたつの面を感じました。生意気と想いますが、わたしの考えを書かせてください。
魂は器の中にあると、わたしも想います。しかしその器は、出来る限り薄く浅くあった方が幸せに想います。そのほうが、誰かに出会ったときに楽しい旅が出来るのです。(楽しい旅とは、22日の記事のコメントにあったもの)
またそれとは別にこんなことも考えています。スプーンさんは器と表現していましたが、わたしは普段衣と表現しているので、ここでは衣を使わせていただきますが、
わたしたちは生まれたとき、ピュアな魂だけの存在なのです。生きてゆく過程において、外部から多くの刺激を受け衣を身にまとい始めます。幾枚も幾枚もまとってゆくのです。その中である時、ある衝撃的事実を確信し、さらに受け入れることができると、その人間は、衣を脱ぎ始めるのです。一枚一枚。そして最後には全て脱ぎ捨て魂だけになる。そして終わります。しかし、終わりは始まりでもあります。終わりにたどり着くその時に最後の一枚を脱ぎ捨て、生まれてきたときのピュアな魂になりたいと考えています。わたしは今を生きながら、この衣を一枚ずつ脱ごうとしています。それはとても困難を要し、また孤独な作業です。だからといって、脱ぎ捨てた衣をもう一度まとうことはできません。デカルトの言うように一方向に進むことしかできないからです。このような考え方のわたしを受け入れる人は、わたしの周りには居ません。みんな、お前は頭がおかしいと言います。そうなのかも知れない。人を知ろうとすればするほど、自分の壁(器)に自分を見ることになるとすれば、やはり生きてゆくのは辛いものだと感じざるを得ません。
こんばんは。揺羅さんは、自分を含めたこの世界の仕組みに、何か言葉にしにくい違和感を常に感じていらっしゃって、どうして他の人たちは、それを感じないのだろう、と、不思議がり、苛立っているのではないでしょうか。それはたぶん、ほかの人が持たない、あるいは邪魔になって引っ込めてしまった感性のアンテナを、揺羅さんが伸ばしたままにしているからだと思います。つまり、揺羅さんに聞こえてくるメッセージは、ほかの人には聞こえないのです(もちろん幻覚のことを言っているのではありませんので念のため)。こんな風に書くと、奇異な感じがするかもしれませんが、特別不思議なことじゃないとぼくは思います。揺羅さんのコメントを読むと、苦しいからでしょうか、ずいぶん性急な感じがします。哲学書や心理学書を読むことで、すぐに納得のいく答えが得られるかは、ぼくにはわかりません。ぼくは哲学書や心理学書はほとんど読んだことがありませんし。でも、哲学書ではないのですが、たとえばドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟という小説は、ぼくにはすばらしい哲学書に思えました。哲学とは、おそらく究極的には、人間とは何か、を解明しようとする学問だと思えるのですが、カラマーゾフの兄弟はまさに、そのために書かれた作品なのではないかと思えるのです。どう考えても、ある特定の目的を成就するために必然的に作られたのだとしか思えない、際立ったキャラクターたちが、無駄なく有機的に絡み合いながら物語を進行させていきます。そして読み進むうちに、ある一つのイメージが、読み手の中に、あぶり出しのように現れてくる。ドストエフスキーの意図はそこにあるのだとしかぼくには思えませんでした。揺羅さんは、小説は読まない、と書いておられますが、もしかすると、揺羅さんと同じ感性を持った人が同じ悩みを抱え、書かずにいられなくなって書いた作品があるかもしれませんよ。似たような感性を持つ人の話をきくのが最も手っ取り早い解決法のような気もするのですが。もしお時間がありましたら、そのような小説をさがして読んでみてはいかがでしょう。ぼくはそうしています。というか、ぼくの好きな作家は、ぼくと感性が似ている人です。
なお、衣の件ついては、ぼくは基本的に揺羅さんと同じ考えです。でも、それを脱ごうとはいささかも思いません。社会で生きていくうえでチョー便利ですし、必要不可欠だと思います。揺羅さんは若いから、潔く脱いじゃえ、と思うのでしょうね。でも、それはインドの山奥あたりで毎日瞑想にふけり、いわゆる悟り、みたいなものでも得なければ無理じゃないかと思います。詳しくは分かりませんけど。そこで、ぼくみたいに歳をとってくると、老獪な戦術でお茶を濁そうと考えるようになるわけです(笑) この衣が、ほころびだらけで、どうしようもなく不完全な欠陥商品だということは認識しています。肝心なのは、それを承知の上で使うことでしょう。
コメントをありがとうございます。カラマーゾフの兄弟は、読んでみます。
わたしは若くはありません。わたしはこれまでふらふらしていて三度も職を変わって生活していました。研究職、教育現場、商社。全ての場所に尊敬すべき人が居て、可愛がってもらい、社会の厳しさも矛盾も人並みに経験してきました。もちろん自分を取り巻く世界に違和感や不思議や苛立ちを感じた頃もありました。でも今はそれを過ぎました。うまくこの社会を渡ってゆくためには、衣は脱がずに、時には肌蹴てみたり、着ていないふりをするのが、賢い大人と言えることも理解しています。でもそれなら、スプーンさんのおっしゃる会話は旅というものは、なんなのか。オーバーを着ているわたしが、Tシャツの人に「今日は暑いですね」と言っている感じがして気持ち悪いです。共感持てそうにない人に、自分のことは話せない。ですよね。わたしは、スプーンさんは、すでに余分な衣を脱いでいると感じていたのです。衣は、脱ぐべき衣と脱がなくてよい衣があるのかもしれないし、生涯着た衣を一枚も脱がない人もいると想います。しかしわたしたちは、どんなに立派な壁や器や衣を持ったとしても、いずれは死んでしまうのです。魂自体を磨かなければ、意味がないのかなと想ったりします。出会った人と会話して、自分の知らない世界を子どもの様に薄着で旅するほうが、ずっとずっと豊かになれると想うのですが。スプーンさんのような大人な方と話をすると勉強になります。スプーンさんの指摘に、わたしってそうなのかもしれないと想うこと度々だからです。ありがとうございました。皆さまにも感謝。
揺羅さん、こんばんは
ぼくが書いた昨日のコメントの後半部分、誤解されるかもしれないな、と思いながら書いたのでしたが、やはりそうなったようですね。文章を軽くしようと思って、ちょっと冗談ぽく書いたのですが、それはまずかったようです。衣を脱ごうとは思わないのは、ぼくには脱げないことが分かっているからです。衣を脱ぐことはできないですが、それを薄くする方法として、瞑想があると思います。よく、無我の境地といいますが、「無我」が、衣を脱いだ状態に一番近いと思います。ぼくの想像ですが、高度な無我を体験すると、価値観が一変してしまい、それまでの自分が馬鹿らしくなって、もしかすると現在の仕事も辞めてしまうかもしれません。それほどのことが起きるのだと思います。実は友人がそうなって、チベットに旅立っていきました。今は戻ってきてますけど。本物の幸せのために、偽物だらけの今の幸せを捨てられるか。今のぼくには無理そうです。そこでぼくは、衣を脱ぐことはしないけれど、その衣に対して慎重であろうと心がけているわけです。ずるいけど、衣を脱いだのに近い状態を手軽に手に入れようと、研究中なのです。たとえば、自然と一体化しようと、植物の中を散歩している時など、いつも無我の境地になろうと努力はしているのです。周りの人たちは、変なやつだと思っているようですが、当人は大真面目です。その状態に近づくと、理屈や、考えみたいなものがなくなってきます。そのとき、ぼくは自然に向き合っているのではなく、一体化し、同じ方向を見ているような気分になるのです。なぜそういうことをしつこくやっているかというと、むかし、そういう状態に近い体験を一度しているからです。その体験が忘れられないのです。ぼくはそのときを境に変わってしまったような気がします。だから、サンテグジュペリの言う、同じ方向を見る、という感じが少し分かるのです。うまく説明したいのですが、経験したことのない人にそのイメージを伝えるのはとても難しいです。とにかく、向き合っているときには、そういう感じには程遠いのです。ほんと、うまくいえませんね。すみません。
もし、ぼくのコメントによって、揺羅さんが傷ついたり、不快に思うようなことがあれば深くお詫びします。こういう変わった考えもあるんだな、と、読み流していただければと思います。
こんばんは。こちらこそ、誤解をさせるような結び方になってしまって、ごめんなさい。ちゃんと分かっています。スプーンさんのおっしゃることは正論ですしね。本当にわたしは悟りを開くために尼さんになりたいと言って、友達に止められたくらいですから。わたしの言っていることは、インドの山奥にでも行かない限り無理な話なんです。せいぜいできることは、衣を出来る限り薄くすることですよね。必要最低限あればいいと思います。
自然の中で瞑想するのは、素敵ですね。わたしはスキーが大好きでよく山に行っていました。2月は日中でも-15℃位です。晴れた日はダイヤモンドダストや霧氷が美しいですが、吹雪くこともあって顔が凍傷になったりします。自然は人間を遥かに超えて、美しく厳しいなと感じます。それはもう身が洗われるような神々しさです。どんなに頑張っても、人間はこれに及ばないと感じます。これがわたしの無我の境地かもしれません。極寒で余計な思考が止まるところが良いのかも知れません。
わたしの知っている人にもインドにいってしまった人がいました。同じ人だったりして。カラマーゾフの兄弟は岩波のを注文しました。きっとわたしとスプーンさんは同じ方向を見ようとしている人種なのです。スプーンさんはわたしに、いつもテーマとヒントを与えてくださいます。そしてそのタイミングが、いつもドンピシャなのです。それがいつも不思議でたまりません。心から感謝しています。ありがとうございます♪
北に旅立った南国犬です.ご無沙汰しています.
こちらはまだ雪が降ったりします.
でも,偶然同じような時にミモザ・アカシアを買いました.
この花はこの時期に実家の庭に咲き,春を感じさせてくれる特別な花です.
枝を春の海に持って行き,濃い青色と花の黄色のコントラストを楽しみました.
スプーンさんの写真も光の入り方と青い花瓶の色合いと花のボリュームが気持ちの良いバランスですね.
花屋の感じのいいお姉さんが,お花が元気なうちに押し花にしてお手紙に入れると喜ばれますよ,と教えてくれました.
☆揺羅さん、こんにちは
揺羅さんと何度もコメントのやり取りをしていて、ぼく自身、ああ、やはり、愛するとは向き合うのではなく、いっしょに同じ方向を見ることだなと再び思いました。いっしょに同じ方向を見ることは、自分を忘れて一つになることなんだと。それが愛することなんだな、と。ほんとにこちらこそありがとうございました。
☆南国犬さん、おひさしぶりです、お元気でしょうか。
アカシアの黄色と甘酸っぱい香りは、忘れてしまった大事な何かを思い出しそうで、つい何度も振り返ってしまいます。写真の花瓶、いい色でしょ? 海のようで。この花瓶に活けてみると、アカシアも喜んでいるように感じらました。ところで、今月、北海道に旅する予定です。阿寒湖、摩周湖あたり。初めてなので、どういうところなのか見当もつきません(笑)