じゅうたんの記憶

家を新築した時、玄関にじゅうたんを敷いた。高段数のペルシャ段通で、けっこう値の張るものだった。今から15年前のことだ。そのときぼくは日記にこう書いている。かなり長い文なので、その最後のほうだけ書いてみる。
…玄関といえば私と妹とその両親が北九州の港の近くに住んでいたころ、その薄暗い玄関には大きな風景画がかかっていた。私が小さかったから大きく感じたのかもしれないけれど。そしてそこにはやはりじゅうたんが敷かれていた。私は四歳だった。母が私に地球がまるいことを一生懸命わからせようとしていたのもこのころだった。一方父はこのじゅうたんがとても良いものなのだといつも自慢していた。その時の笑顔が私の記憶の中ではもっとも父親らしく見える。ただし、それがペルシャじゅうたんだったかどうかはわからないし、いまさら聞こうとも思わない。古い記憶をいじくりまわすときっと壊れてしまう。それから数十年経って、女房は子供に地球がまるいことを教えたし、私は暗い玄関にじゅうたんを敷いた。そしていつかお金がたまったら大きな風景画をそこにかけようと考えている。
どうでもいい内容なのだが、さっきこれを読んでいて驚いてしまった。だからこうして書きとめている。この日記に描かれている、薄暗い玄関の風景画やじゅうたん、そして父の自慢話の記憶が、今では完璧に消えてしまっているのだ。さっきこの日記を読みながら、え?ウソだろ? と、思わずつぶやいてしまった。今、いくら記憶を探っても、昔住んでいた家の玄関の風景は浮かんでこない。そんな記憶はどこにもない。日記に書いてるとおりのことが起こったようだ。「古い記憶をいじくりまわすときっと壊れてしまう」のである。