キルケゴール的転回

やっと秋らしくなってきた。暑さでスカスカになっていたアタマも少しばかり冴えてきて、何か面白そうな本があったら読もうかな、って気分。そこで池澤夏樹の「小説の羅針盤」という本を手に取った。いわく、「上田秋成、森鴎外からピンチョン、カーヴァー、山田詠美まで、ぼくが好きな作家や詩人や思想家を自分のまわりに並べてみた。希代の読み手でもある著者が、15人の作家の本質を鮮やかに軽やかに突く。読書欲を倍増させる一冊」とのこと。この本自体、軽快なエッセーで楽しめるのだが、ぼくの目的は彼の解説を手掛かりに普段目にも留めないような本を読んでみよう、ってことなのだ。さっそく、キルケゴールの「死にいたる病」という、よほどのことがない限り死ぬまで読むことはなかろう、という本の解説を読んでみる。いきなりこんな出だしで始まる。


何の先入観も予備知識もないままに「死にいたる病」を読もうとする者は相当の困難を覚悟しなくてはならない。これは哲学の素人であるぼくがそれを試み、強引に読んだつもりになって書いた小文であり、それ以上ではない。ぼくはときに著者の論理をたどたどしく追い、ときには百年も後の別の哲学者を引き合いに出して、なんとかこれを理解しようと試みた。なかなかむずかしいことだった。


なるほど。しかし、後に続く彼の解説を読んでいくうちに、なんだか読んでみたくなった。というわけで、さっそく電子書籍ストアからダウンロードして読み始める。想定していたより読みにくい。すいすい読めるところもあるが、大半は何のことやらわからない。それでも1265円もした本なので簡単にはあきらめきれず、行きつ戻りつしながら前進していく。そしてぼくなりに分かったことがある。キルケゴールは限りなく重大なことを、まさに目の前の読者、ほかでもない、このぼくに伝えようとしている。しかしそれはコペルニクス的転回をはるかに上回る次元の事柄で、日本に限って言えばおそらく98%の読者には理解できない。その理由の一つがこの本が教化を目的として書かれていることにあって、98%の読者には彼の企図するところの教化によるパラダイムシフトが成功しない限り、この本は頭の体操程度にしか役に立てない

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