矢内原忠雄のエッセイ「読書と著書」を読んでたら、先日読んだ森本あんり(著)「不寛容論: アメリカが生んだ「共存」の哲学」で取り上げられているロジャー・ウィリアムズが頭に浮かんだ。なぜなら忠雄さんのいう尊敬に値する人物の条件のひとつに「欠点ある人物」でなければならない、とあり、まさにロジャー・ウィリアムズがそれに合致する異形の人物だったから。いわく「真理を愛する余り、自己の人間的欠点の自然に流露するを顧慮せざる人物は、必ず真理の感覚が鋭敏であり、真理についての天才的性格の所有者である」
以下、矢内原忠雄「読書と著書」から抜粋
『余の尊敬する人物』はエレミヤ・日蓮・リンコーン・新渡戸博士の四人を含んで居る。初の二人は預言者型の人物であり、後の二人は善き意味の常識家型の人物である。而して私の尊敬する点として、この四人に共通する性格は次の四つである。
(一)真理を愛したこと。
(二)誠実であったこと。
(三)平民的であったこと。
(四)欠点ある人物であったこと。
この最後の点については少しく説明を要するであろう。私は欠点のなき人物、若しくは欠点なき人物となることを理想とする如き人物を、尊敬する気になれない。そのような人物は、第一おもしろくない。又親しめない。加之しかのみならず、大体偽善者であると思って間違ないのである。欠点のある人間、若しくは欠点をつつまずに出す人間は、少くとも正直である。もちろん自己の欠点を誇り、故意に之を人に示すのは鼻持ならぬ傲慢であるが、真理を愛する余り、自己の人間的欠点の自然に流露するを顧慮せざる人物は、必ず真理の感覚が鋭敏であり、真理についての天才的性格の所有者である。之に反し人間の有つすべての性情・欲望をひとしく円満に発達させ、その均衡の上に人格の完成を計ることを目的と為す如き人生観に、私は共鳴しない。之は功利主義であって、妥協と偽善、打算と物慾の発生地である。利益よりも真理を重んじ、真理の為めに戦う真実の性格は、真理以外に自己の一切の内的・外的装飾を不用と為すところの平民的人物であり、又欠点あることを恐れざる直線的人物でなければならない。
ところで、日本で生まれ育ったぼくにとって、アメリカという国は何とも変わった国だと思えてたのだけど、森本あんり(著)「反知性主義」とこの「不寛容論」を読んで、そうか、なるほどと合点がいき、スッキリした。同時に、アメリカから見れば日本こそが変な国なのだろうとも考えさせられた。
アメリカを手っ取り早く理解したいと思うならロジャー・ウィリアムズの活躍?とその背景を眺めればかなり理解できるんじゃないかと思う。
以下、森本あんり(著)「不寛容論」エピローグ 内心の不寛容より
17世紀のアメリカに生きたロジャー・ウィリアムズは、信教の自由や政教分離という歴史的分野における功績から考えれば、明らかに傑出した人物だろう。だが、個人的に彼と友だちになりたいと思う人は、どれくらいいるだろうか。彼は、歴史的偉業を成し遂げた先駆者だが、人物としてはかなり異形である。たぶんそういう人でなければ、正統性の重力を振り切って新たな実験に挑戦することもできなかっただろう。彼の極端な思想や行動は、周囲の者には頭痛の種だったが、彼自身もしばしばその犠牲となって苦しんだ面がある。