物語からの問い

昨日、コーヒーを飲んでいたお客さんが、このまえ手塚治虫の特集番組をやっていたのだけど、とてもおもしろかったよ、とおっしゃった。たぶんそれは「100分DE手塚治虫」という番組のことだろう。実はぼくも興味を持って録画したのだけど、まだ見ていなかった。というわけで昨晩、久しぶりにテレビの前に陣取った。なかなかおもしろかった。特に、手塚の作品はストーリーが先で、そこにキャラクターをはめ込む、という作り方だ、という話が興味深かった。以下、テレビ画面のスナップ

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これを見ていて、フランクルの「夜と霧」の一節を思い出した。以下、本文より抜粋

「ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。 わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、 生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、 絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、 わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。 生きることは日々、そして時事刻々、問いかけてくる。 わたしたちはその問いに答えを迫られている。 考えこんだり言辞を弄することによってではなく、 ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。 生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時事刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない」

同じことをフランクルは「死と愛」では次のように述べている。
「人間が人生の意味は何かと問う前に、人生のほうが人間に対し問いを発してきている。だから人間は、本当は、生きる意味を問い求める必要などないのである。人間は、人生から問われている存在である。人間は、生きる意味を求めて問いを発するのではなく、人生からの問いに答えなくてはならない。そしてその答えは、それぞれの人生からの具体的な問いかけに対する具体的な答えでなくてはならない」

手塚治虫が生み出した物語は、その登場人物に、その物語の意味を問い、具体的な答えを求めつづける。これはフランクルのいう人生の意義と同じ構図にみえる