理に適ったことに従うと実存の輝きが失われる

ヒマだったので、とあるブログをだらだら読んでいたところ、ザルのようなぼくの感性に次の言葉がひっかかった。
いわく、「理に適ったことに従うと実存の輝きが失われる」
これと似たような話を、さきほどお客さんと交わしたばかりだった。
ところで月曜日は晴れるらしい。
あの植物園の桜がそろそろ開くころ。

“理に適ったことに従うと実存の輝きが失われる” への2件の返信

  1. こんばんは。
    「理に適ったことに従うと実存の輝きが失われる」というのはどう意味なのか私にはよくわかりません。
    「理に適ったこと」というのはそもそもどういう意味の表現なんでしょう。
    これは合理主義ということを歪曲しているように思える言い方と言ったら過言でしょうか。世界を理性的に解釈することを、まるで人間的な事象を無慈悲に切り捨ててしまうことと等価のように言っているように思えるのは誤解でしょうか。
    そもそも人間であるということは「理にかなっている」ことを当然の前提として生きつつ、そこから逸脱する「非合理」に人間的な共感を示すことではないでしょうか。
    続きはまたゆっくりと、、、

  2. こんばんは。ステキなコメント、ありがとうございます。
    同じ「そもそも」なのですけど、aquilaさんが「理に適ったこと」という点に焦点を当てられたのに対し、ぼくは「理」そのものに焦点を当てて考えてました。この記事を書かれた方の趣旨とはずいぶん離れたものですが、ぼくがこの言葉から想起したイメージは次のようなものです。理性とは結局人間の心の働きですから必ず限界があります。人は自分の能力で認識しうるものだけを受け入れ、これを理解します。世界を理性的に解釈しようと試みても、最初から普遍的な価値観、規準といったものが与えられているわけではないので、得られる答えは相対的なものとならざるを得ません。理性の限界を無視し、それを真理に導く有効な能力と信じて盲目的に従うなら(その性能に限界があるので、取りこぼし、間違いがあっても自分では気づきようがない。ユクスキュルのいう環世界です)、それで得られたものは便宜的に作り上げた精密な虚像でしかないのでは。理性の限界を受け入れる謙虚さを持つ者、つまり、理に適ってみえることを仮初には受け入れるが、一歩ひいて、それは絶対的なものではないのだから信頼には不足するという意識を持って対象に臨む者、が、より実体に近づけるのではないか、とぼくは思ったのです。最近思うのですが、人間の理性によって何がわかるかというと、それは結局、人間には何も分からないんだ、ってことなのでは。つづきは、実存の輝き溢れる、うまい料理を食べながらでも…

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