夏の終わりはピカソだった

100830_001
市立美術館で開催しているピカソ展も、あと一週間でおしまい。見に行きたいけど、休館日がぼくの休みと同じ月曜。そこで、なんとかしてほしい、と美術館に交渉してみたところ、じゃあ、8月30日の月曜だけ特別に開けてあげましょう、ということになった。というのはうそだけど、とにかく今日は月曜なのに開いていた。
100830_002
近くの地下駐車場に車を止め、地上に出ると、西郷さんが待っていた。美術館はこの銅像の後ろにある。ぼくには絵を見る目がない。でも好きな絵はある。マチスの絵を見ると、なぜかうまい珈琲が飲みたくなる。ピカソは良くわからない。キュビズムとかではない、ふつうに描いたのは好きだ。特に、暗いムードのものが好み。暗いといえば、当美術館に常設されてるルオーの作品がいい。同行したヨッパライ某に、今回、もしお金があったら買いたい、と思う絵はあった?と聞くと、二枚かかっていたジャスパージョーンズのうち、右側のが欲しい、と言った。そうか。でもぼくはやはりマチスがいい。あれを見ながら珈琲を飲んだり、うまい魚料理とか食べたらしあわせだろうな。ルオーもいいけど、見ていて食欲が湧いてくるようなことは起きそうもない。
100830_003
美術館を後にし、天文館の某ウナギ屋でヨッパライ某はうな丼、ぼくはうな重を食べた。ぼくはうな重が高級でうな丼はふつうなのだと思っていたけど、価格も中身も同じだった。某デパートに大きな本屋ができた、と聞いていたので見に行った。エスカレーターを上がっていくと、本特有のニオイがし始めた。すごい数だ。欲しかった本があったのを思い出し、検索機で探してみた。それは宮本常一の忘れられた日本人という本。すぐに見つかったが、高いほうだった。ぼくは安いほうが欲しかったのだけど。
100830_004
屋上に出てみると草が生えていた。ヨッパライ某がシロクマを食べよう、というので、あの店に食べに行った。今年初めてのシロクマ。そして、たぶん最後のシロクマ。

“夏の終わりはピカソだった” への2件の返信

  1. [E:art]ピカソ・ゲルニカ展
    忘れられない展覧会の一つです。会場に一歩入るなり戦争への怒り・悲しみ等がダイレクトに伝わってきました。何の説明も要らず、唯 立ち尽くしそれらを全身で感じていました。

  2. 精神画家バルテュスは、脳科学者セミール・ゼキとの対談で「絵画とは、他の言葉では表現することができない言語活動なのです」と発言しているそうです。と、精神科臨床医の斎藤環さんが書いてました。chikako~♪さんがおっしゃるとおり、優れた絵画の前に立つと、何の説明も要らず、唯 立ち尽くしそれらを全身で感じることになるんだと思います。ぼくは昨日、この絵はなんでぼくを立ち止まらせるのだろう、と、マチスやルオーの絵の前で、ひとしきり考えてました。それは、頭で考えるときに使う言語とは違う種類の言語が絵画から発せられ、ぼくに何かを訴えていたからなんですね。

コメントは受け付けていません。