密かに魔女と呼んでいるお客さんがいる。ある朝、開店前に珈琲豆を焙煎していると、明かりの消えた店のカウンターに、だれか座っている。驚いてそちらに目をやると、
「ねえ、一杯、飲ませてくれる?」
明かりをつけると、一目で高級品とわかる衣装をさりげなく着こなした年配の女性が微笑んでいた。以来、魔女はたびたび店にやってくる。魔女は日本舞踊と活花の先生をやっていて、けっこう忙しい。カウンターに座ると、いつも大きなあくびをする。そして言う。不思議なのよね、ここに来るとあくびが出るの。先日、魔女はこんな話をした。うちのだんなは、とっても優しいのよ。何でもやってくれるの。昨夜は、いただいた魚をさばこうとしてたら、怪我をするから、といって代わってくれたの。いつもそんな調子なのよ。うふふ
ぼくには彼女のご主人の気持ちが良くわかる。ご主人は、彼女の喜ぶ顔が見たいだけなのだ。彼女の微笑みには、不思議な力がある。おそらく彼女は気づいていないだろう。いや、気づいていないからこそ発現する力だ。無自覚な微笑み。とりわけ美人というわけでもなく、歳もぼくよりかなり上だ。
人としての幸せと男の幸せは、もちろん別だ。男としての幸せは女あってこそのもの。先日読んだ、分子生物学者、福岡伸一の「できそこないの男たち」という本に、生物のデフォルトはメスであって、メスにとって便利なようにカスタマイズされ、作り出されたのがオスである、みたいなことが書いてあった。つまり、元来オスはメスの召使いなのである。奴隷といってもいい。男はそのご主人である女を護り、おいしい食事を与え、楽しませ、母から預かった遺伝子を遠くに運ぶためにつくられた。しかし、周りを見渡してみると、実際にはそのようになっていない。ヒトという生物に限り、主人と召使いの関係が壊れてしまっている。これを生物界の一員として正常化させるにはどうすればいいのだろう。そのヒントは前述の魔女のくだりにある。男は女の無自覚な微笑みに抗うことができないようにつくられている。女のための労苦は、その代価たる微笑によって雲散霧消し、喜び、幸せに転化する。そのinnocenceなスマイル、天上の微笑みを後天的に身につけることは可能なのか。それは意外と簡単かもしれない。自然の掟でそうなるのだから、自然に還ればいい。前述の魔女は日本舞踊と活花の先生だ。芸を極めるには、一度、自我を殺さなくてはならない。自我の消滅は全てになることと同じだ。それは、自然になる、ということだ。自然になる、とは、魔女になることだ。魔女とは風と同様、自然なるもの、なのである。自然になることができれば、意識せずとも必要に応じて天上の微笑みが生ずることになる。女は幸せになり、それに傅くことで男も幸せになれる。めでたし、めでたし。
(ほんとか?)
“君のためなら死ねる。かも” への2件の返信
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「心中を口にする相手を、男は本気で愛していない」
・・・・タイトルとはズレがありますが、、今ふっと思い出しました。
人間とは何か?永遠のテーマです(^-^)/~[E:pencil]
うーん、かなり含蓄のある言葉ですね。
愛するって、どういうことなのか。
愛すること、そして愛されること。
永遠のテーマですね。