船木亨著「進化論5つの謎」という本を読んだ。以前、店にいらっしゃる常連のお客さんと進化論やアフォーダンスの話で盛り上がったことがあって、そのお客さんが先日「これを読んでみたら?」と、わざわざ持ってきてくださったのだ。でも、あの時と違い、今のぼくは進化論への興味をほとんど失っていて、食指がイマイチ動かず、なかなか読み出せずにいた。でも、読み始めておどろいた。ぼくが興味を失った理由がそこに述べられていたからだ。
たとえば、こんなくだり。以下引用
p102
そもそも進化論において、人間の理性が、宇宙について、また生物について、そのありのままの姿と歴史を捉えることができるようなものとして、なぜ出現することができたといえるのか。もしできていないとすれば、進化論も自然科学も、何もかも人類という生物の知覚世界を前提として推論された妄想であるということになってしまうであろう。
中略
生命の活動は「知る」ということを含みもっているだろうか。地球(自然)は知る存在を生じさせうるだろうか。宇宙はそのような知的生命体を含みうるだろうか。
p188
進化論は、いうまでもなくヨーロッパ的自然観のもとにあり、科学的に自然のすべてを知ろうとする動機のもとで論じられてきた。ヨーロッパ人たちは、おそらく自分たちの自然観は普遍的であり、他の文化の自然観は偏ったものだと考えていることだろう。わたしは、かれらの進化論を検討していくなかで、しかし、それが扱う生命(進化してきた生物たち)とそれを扱う生命(人間の生き方)の同一性を保ちつつ思考しようとすれば、「思考の暗闇」とでもいうべきものに出会わざるをえないと考えるにいたった。思考もまた、生まれるもののひとつであり、みずからが生まれてきた暗闇を知らない思考は無価値である。
————–引用ここまで————–
ぼくはあんなに好きだった、進化論、創造論、IDについて考えるのをぴたりとやめてしまったのだけど、その理由がまさに、考えているうちに突然この「思考の暗闇」にぶち当たったから。
「みずからが生まれてきた暗闇を知らない思考は無価値である」
では、どうすればいいのだろう。
著者が最後に自分の考えを述べてますが、それは昨年秋ぼくが暗闇に突き当たって以来、試行錯誤していることと同じでした。
“思考の暗闇に出会う方法” への3件の返信
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こんばんは
「宇宙の諸現象の本質は、主体を離れた客観的な物質であって、人間の精神も物質としての頭脳の一つに過ぎない」などという狭義は、破綻への道ではないかなと思うものの、難しくて私独自の考え方などは、多分、時代に於ける信奉者の共通の認識傾向に(日本人的にと云うと語弊があるでしょうか。)、メディアの報じる方向へといざなわれてしまいそうに思われます。
>「みずからが生まれてきた暗闇を知らない思考は無価値である」
では、どうすればいいのだろう。
著者が最後に自分の考えを述べてますが、それは昨年秋ぼくが暗闇に突き当たって以来、試行錯誤していることと同じでした
何だか焦らされますね(笑)
以前、創造論VS進化論のお話の時にIDに関するサイトを閲覧させてもらいましたが、2009年はダーウィンが「種の起源」を出版してから150年を迎えるとのことで、一般の人々が看過しがちな問題や指示&礼賛の論争展開を危惧し、警鐘をならしておられましたね。
追伸
「ひとりごと」の更新を心待ちにしていますJ^o^L
「指示」を「支持」へ訂正します ね (^o^ゞ)
こんばんは
昨日からかぜをひいてしまって、まだ頭がぼんやりしています。熱があるせいか、恐ろしい夢ばかり見て、けっこうつらかったです。昨年、このブログで語った、進化論、創造論、IDでしたが、あのあと、その反対者たちの意見を調べているうちに、これらは自分の髪を引っ張りあげることで底なし沼から脱出した、ほら吹き男爵の話と同じじゃないか、と、突然思い至ったのです。この本の著者が言うように、生まれてきた闇を知らない思考は無意味だと思います。でも、それを言っちゃー、オシマイよ、で、それを言ったとたん、ぼくはもう何もいえなくなりました。だから、今ここに書いていることも妄想です。いや、せめて詩と思いたい(笑) ちなみに、この本の著者が進化論を否定しているかといえば、そうではありません。どちらかといえば、間違って理解されているダーウィンの進化論を、より正しく知ってもらおうという趣旨で書きはじめたように見えて、記述を進めていくうちに闇にぶち当たったようにみえる、そんな展開です。進化論、創造論、IDを勉強する前に目を通しておいたほうがよい著書のように思えました。いや、逆かな。
ひとりごと、そろそろ更新します。