99.9%は仮説、再び

081022_01
数日前にも書いたけど、インテリジェント・デザイン、という考え方が、おもしろくて、かなりハマっている。ヒマがあれば、ネットでインテリジェント・デザイン関係の記事、意見を読んでいる。いやー、おもしろい。何がおもしろいかというと、日本のweb上では、おそらく99%以上のインテリ?が、その考えを激しく否定し、「こんなもん、非科学的で話にならんわ」と叫んでいるのです。インテリジェント・デザインを認める発言をしている人って、チョー少数派なんですね、少なくともweb上では。ところで、ネットでインテリジェント・デザイン関係の記事を検索すると、以前、このブログでも取り上げた、竹内薫(著)「99.9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方」での発言が、インテリジェント・デザイン反対派の間で槍玉に挙がっているんです。いわく、「竹内薫の作品は好きだけど、あの発言はいただけないな」みたいな。で、竹内さんがどんなことを言っているかというと、「…私の持論なのですが、この知的設計説という「大仮説」はまんざらバカにできないものだと思っています…」「…生命の起源については、まだまったくわからないことだらけなんです。だとしたら、「なんらかの知的生命体が生命の種をまいた」みたいな話は、グレーゾーンの仮説としては、ありだと思うんですよ。そしてそれは学校で教えるべきだと思うんですよね…」
なるほど。
ぼくは、この彼の発言を全然おぼえてなかったんですが、今読み直してみても、彼は真っ当なことを言っているとしか思えません。でも、今この記事を読んでいる、ほとんどの方には、かなりの違和感が生じているのかもしれない。となると、ぼくの感性は、まともじゃないってことになるのかも。そこで、二年半前に書いた、この本の感想を再び読み返してみたんですが、ここで二度ビックリ。ぼくは彼の感性に共感してるんですね、それも激しく。やっぱりなー、って感じで、なんとなくうれしい、今日の午後でした。
ところで、著者はどうして「すべては仮説」あるいは、「100%仮説」にしなかったんだろう。この著書でも言っているけど、
「科学はすべて近似にすぎない」リチャード・ファインマン なのに。
もしかすると、著者はこう言いたかったのかな?
「100%が仮説とは限らない」

“99.9%は仮説、再び” への4件の返信

  1. こんにちは。
    ふむぅ~[E:think]。
    「仮説が100%とは限らない」のは案外、行動が「想定」から始まるからのように思えるのですけど・・・。
    想定(仮説)から行動をおこし、それが想定(仮説)どうりになれば現実になるのではぁ~?。。。難しいですねぇ~(笑)。
    気分転換に
    http://jp.youtube.com/watch?v=aEQ9SfPnrQA
    まっ。この世界も「完全」ではないのかもしれませんね。
    それでは・・・。

  2. すべては仮説、それは、たとえばこんな話です。
    本から抜粋しますね。
    「飛行機はなぜ飛ぶのか?」という疑問は、最先端の科学(航空力学)でも完全には説明できない難問なのです。
    「えっ、でも、飛行機は空を飛んでいるじゃないか!?」
    でも、わかっていないものは仕方ありません。
    ほら、なんだかひどい話でしょ?

  3.  「インテリジェント・デザイン」は非科学的と言うより、「神」という言葉を隠したキリスト教思想そのものなので、問題の根本はキリスト教的思考を受け入れるか否かだと思います。
     キリスト教で言う「神」を、すべてを設計し創造した初源の「知的存在」とする思考バターンは、西欧の18世紀において唯物論や反キリスト教的思考が勢いを得た時、それらに対抗する「あがき」としてずいぶんと喧伝されましたが、結局、キリスト教、と言うより西欧における宗教的思考そのものに対する幻滅と落胆を癒すものにはなりませんでした。
     「神」無しでもやっていけるという19世紀的「自信」がそう長くは続かなったのは今では明らかですが、それでは、神を復権すれば、問題は解決して、かつてあったと想像されている安定を取り戻せるかと言えば、われわれの思考は今やそれほど単純ではないと思います。少なくとも、神無き時代にどう堪えるかという発想が、最低限われわれの思考を規定していると思います。しかしそれもこれも西欧の話です。
     神無き時代に堪えきれなくなった時に何が起こるか。お前は大いなる「生命」の一部を担う積極的な存在だとやさしく保証する悪意ある力に、まんまと乗せられないとは限らないでしょう。
     人間精神における宗教性を、批判を以て考えることは必要であり、それは人間精神の力の一つだとも思います。ところが「神」だとか宗教だとかを考えずに日々を過ごすのも現代の特徴であり、実際それで差し迫った問題も生じないと思う人が大半でしょう。しかし「神」を、あるいは宗教的畏怖を、日々の思考の重要な「項」として織り込まないそのような態度、そのような漫然たる「非宗教的態度」がもっとも脆い精神に陥る危険があると私は思います。
     しかしそれは「インテリジェント・デザイン」の話とは別のことです。読んだことはありませんが、竹内氏のように「インテリジェント・デザイン」を肯定的に話題にする人が、得てしてそれが西欧的思考、キリスト教そのものの話だと意識していないのは問題でしょう。宇宙についての問題の立て方は、世界に様々有り、「インテリジェント・デザイン」も単なるその一つにすぎません。はっきり言えば、200年も前からある古色蒼然たる思考の一つであり、そのアメリカ的形態だと思います。

  4. aquilaさん、こんばんは、反論をお待ちしてました。というのは冗談ですが、実のところ、半ば期待しているところもあったりします(笑)
    なお、弱輩者ですので…、ってことで、今から述べることに失礼があったら、いや、かなりあると思うので、どうかお許しください。今回のコメントを読ませていただいて、その率直な感想を述べさせていただくなら、aquilaさんとぼくの神についての考えが、その根本からまったく違うので、おそらく、この話がかみ合うことはないだろう、ということです。でも、それはそれでおもしろいと思います。というより、こういう話がこうしてできることは、案外、すばらしいことなのかもしれません。なぜなら、違和感こそが、それまで見えなかったものが見えはじめる有益な兆しのように思えるからです。コメントを読む限り、aquilaさんの考える神とは、人が創造した装置、それは必要に応じて、出したり引っ込めたりできるストーブのようなもので、つまり、定義的には矛盾しますが、その番人は人間、ってことですよね。神は人の思考の中にある、と。だからその入れ物である人間が死んだら、神も消えてしまう。絶対的な存在ではないわけです。そしてぼくはというと、その逆の考え。人間がいようがいまいが関係なく存在するもの。そして、それを正当化できる考えが「インテリジェント・デザイン」であり、キリスト教思想そのものであって、そしてもちろん、神というのは、人がつくりあげた妄想・・・なんだよ、と、aquilaさんは教え、諭してくださっているわけですよね。その気持ちには、aquilaさんの人柄を知っているつもりでいるぼくとして、心より厚くお礼を申し上げます。本当にそういう感謝の気持ちでいっぱいなのです。でも、ちょっと違うんです、と、いう話は、この場ではとても長くなるので、いつか、ワインでも飲みながら、お話させていただければうれしいです。
    インテリジェント・デザインについては、ぼくも最近調べ始めたので、まだよく分からないのですが、インテリジェント・デザインのHPにある次の記事が、けっこう気に入ってます。よろしかったら、お時間があるときに読んでみてください。
    http://www.dcsociety.org/id/information/070620.html

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