Mist

昨夜は、某F少年から借りたMistという映画を見た。なかなか面白い作品だった。どこがどうおもしろいの?と聞かれても、それをうまく答えるのは難しい。一緒にこの作品を見たヨッパライ某は、見終わって一言、「ひどい映画だったね」と苦笑いした。見終わって印象に残ったのは、世界とは各個人がそれぞれに描く幻想そのものだ、ってこと。この映画では、各々が描いているその世界に、理解し難い異世界が割り込んでくる。人々は自分の信じる世界を必死に保とうとする。つじつまを合わせようとするのだ。それに失敗すると自分が崩壊してしまう(mistはまさに人の内にあって、見えるはずのものを見えなくしてしまう)。この映画は、そんな世界同士の衝突を描いているように見える。日高敏隆という動物学者が、科学は客観を扱うが、真の客観なんて、あるのだろうか、というようなことをいっている。すべてはイリュージョンじゃないか、と。しかし、その幻想世界も、ある立場からだと客観的に眺めることが可能らしい。ぼくの勘違いでなければ、聖ヴィクトルのフーゴーの言う、「全世界を異郷と思う」ことによって。それはつまり、世界という煩悩を断ち切ることに他ならない。
次のページに聖ヴィクトルのフーゴーの「全世界を異郷と思う者」のことが書かれてました。お時間のある方はどうぞ。
異国の客

“Mist” への6件の返信

  1. こんにちは。
    やっぱり「我が道を行く」・・・。
    自分の信じた道をただ歩む・・・。
    それが一番いいのでは?・・・(笑)。。。なんてね[E:coldsweats01]。
    それでは・・・。

  2. わが道を行く。なるほど…
    でも、ぼくにはぼくの道が見えない。
    それを探すのがぼくの道、かな。
    なんか、高村光太郎っぽいね。

  3. 池澤夏樹のブログ読みました。好きな作家だけど、彼の言うことは往々にしてロマンチックかつセンチメンタルですね。だから悪いというわけじゃなく、そういう質の人なんだという思いを改めて強くしました。私もそうだけど、、、(笑)
    世界を異国とすることは、世界に対して異邦人になることとほぼ同義だから、カミュの『異邦人』はあんなに反キリスト教でありながら、結局根っこは裏返しのキリスト教ではないかと改めて思いましたよ。ただカミュには天国というモーメントが一切ないから、救いがどこにもないけど。それにしてもこういうのはホントにヨーロッパだな。
    だけどやっぱり、天国の視点からこの世を捨てるのはあまりにクリスチャンですね。せいぜい東洋的「世捨て人」程度にしておかないともう人間ではありませんね。私としてはこの世の異郷を受け入れる程度で満足したい。

  4. aquilaさん、こんばんは、久しぶりのコメント、ありがとうございます。秋の夜長は、こんなことをして過ごすのも一興ですね。この、サン・ヴィクトルのフーゴーの、全世界を異郷と思う者、云々…を知ったのは、ジョナサン・コットというアメリカの作家の書いた『The Search for Omm Sety』(「オンム・セティを探して」)という本を訳した田中真知さんのブログを読んだ時です。この言葉に出会ったとき、ぼくはその意味もちゃんと分からないのに、まるで求めていた絵画に出くわしたような新鮮な感動を味わいました。ぼくとaquilaさんの棲む世界が、その成り立ちにおいて派手に異なっている件については(笑)、何度も一緒にお酒を飲みながら話してますし、すでにお互いの了解事として落ち着いているように思います(あきらめていると言うべきかも)。おそらく現在において、ぼくの持つ世界観は少数派に属するのでしょうね。さて、ぼくがしつこく「世界」にこだわる理由、aquilaさんなら理解してくださると思いますが、いかがでしょう。ぼくは別の世界から今の世界に移住しました。ちょっと異様に、あるいは馬鹿げて聞こえるかもしれませんが、でもその言い回しが一番しっくりくるのです。そういう経緯を持っているせいで、今のぼくは、自分が身を置いた二つの異なった世界を等価に感じることができます(もうひとつの世界に棲んでいた頃のぼくを思い出す時、彼は今のぼくとまるで価値観が異なっているために、不安を覚えるくらい奇妙な感じがします)。別の言い方をするなら、世界は一つではない。と。これを日常的に感じることができるのです。これは食べたことのないリンゴの味が分からないのと同じで、この感覚はそれを経験したものじゃないと手に入らないと思います。ではここで、その時ぼくが読んで、ハッとした部分を田中真知さんのブログから引用します。
    ——– ここから ——–
     この本では、彼女の転生体験をニュートラルな視点から見つめる著者のアプローチがとてもいい。それはこの本を書いたジョナサン・コットが、いわゆるスピリチュアル系の作家ではなく、「ローリングストーン」誌の編集者出身でグレン・グールドやジョン・レノンやボブ・ディランへのロング・インタビュー本や、ラフカディオ・ハーンの研究書などで知られている芸術家肌の作家であることも大きく関係している。コットとのメールのやりとりの中で、ぼくは、どうしてグールドやハーンの芸術に深く惹かれてきたあなたが、オンム・セティという一見まったく畑違いの人物に興味を持ったのですか、と訊ねてみた。コットは返信メールの中で「私にはグールドもハーンも、そしてオンム・セティも自分にとっての本当の故郷を探し求めて旅をしていた人のように思えるのです」と書いてきた。つづけて彼はこう書いていた。私信ではあるけれど、とても印象的だったので、ここに訳しておく。
    「……私が好きなのは、彼らのように地理的な境界、先入観や常識という境界を超えてゆく人なのです。その本質をよく表しているフランスの中世の哲学者サン・ヴィクトルのフーゴーのこんな言葉があります。
    『自分の故郷を愛おしむ者は、まだ未熟者である。どこの土地でも故郷だと思える者は、すでにひとかどの力ある人である。だが、全世界は異郷のようなものだとする人こそ完璧なのである』
    このことをいつも感じるのはグレン・グールドの音楽にふれるときです。幸運なことに、私は数年にわたって電話を通じて、100時間以上もの時間をグールドと共有することができました。グレン・グールドはなみはずれた人物であり、私のヒーローのひとりです」
    以上、田中真知さんのブログ「『転生』という翻訳本を出しました」より。
    http://earclean.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_f57e.html
    ところで、『ディダスカリコン』の第3巻第19章からの引用に、
    ……けれども、すべての地が祖国であると思う人はすでに力強い人である。がしかし、全世界が流謫の地であると思う人は完全な人である。第一の人は世界に愛を固定したのであり、第二の人は世界に愛を分散させたのであり、第三の人は世界への愛を消し去ったのである。私はといえば、幼少の頃より流謫の生を過ごしてきた。……
    とありますが、この「第三の人は世界への愛を消し去ったのである」は、天国の視点からこの世を「捨てる」のとは違う気がします。それは逆に、新約聖書の「神は実に、そのひとりごをお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びないで、永遠のいのちを得るためである」に使われているのと同じ愛を会得する上でのステップなのではないかと。

  5. 物理的な境界を越えていく精神の力を想像力と呼ぶはずですよね。想像力は人間に良いこともしてくれるし悪いこともするでしょう。ある種の宗教的な信念は、想像力が柔軟性を失った一つの形と言えるかも知れません。だからこそ人は信仰を獲得することで不安を覚えない揺るぎない境地に到ることができるのでしょう。しかしこれは想像力が活力を失って死んだ証拠のように思えます。私は生き生きとして柔軟な想像力を保ってこの世を生きていくのが、人生の秘訣だと思っております。転生体験というのは人間の精神が強く想像力を発揮した極限のもので、これを現実としてそのまま是認することと、それを想像力のありうる形態として否定しないこととはまったく違うことですね。私は後者です。

  6. aquilaさんのおっしゃるとおりだと思います。もしかすると意外に思われるのかもしれませんが、ぼくは科学的な考え方が好きなので、想像力によって得た記述をそのまま信じることには甚だ抵抗があります。どちらかといえば徹底して疑うほうです。どうして疑うのかといえば、それは、こんなぼくでも、真理を愛そうとする気持ちがそれなりに働いているからだと思います。ご存知のように、プレートテクトニクス理論というのは今から40年前にほぼ確立された比較的新しい理論で、今ではそれを疑う人のほうが「想像力に長けている」と思われるでしょうが、それまでは、地球上の大陸そのものが船のように漂流しているなどとは、ほとんどの人が考えもしなかったわけです。もちろん、仮にその時代にぼくがそれなりの知識を身につけた科学者として意見を述べる立場にあったとしても、おそらく、「そんなトンチンカンな話があるものか!」と、一笑に付したことでしょう。前出の「転生」については、ぼくは今のところそれほど興味がないし、その記述はおそらくaquilaさんのおっしゃるように、強い想像力によってなされたものじゃないかと思うのですが、だからといって、ぼくはこれを否定することができません。それはぼくの科学的な態度がそうさせるのです。分からないことを否定してしまうのは、科学的ではない、と。転生に関しては「時間」がキーワードになると思うのですが、この「時間」は、いまのところ科学的に解明されてません。アインシュタインは「時空連続体」という概念を相対性理論で述べてますが、これはぼくがいくら想像力を発揮してもイメージできない、難解なものです。ぼくはいま、CERNに注目しているのですが、それは、重力とは?時間とは?そして、もしかするとクオリアについても、何らかのヒントを提供してくれるのではないかと期待しているからです。
    たびたび、えらそうな書き方をしてすみません、でも、こういう議論って、とても楽しいです。ぼくのつまらない考えにお付き合いいただいて恐縮です。

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